荘子 / 知北遊
莊子曰:「夫子之問也,固不足質。正獲之問於監市履狶也,每下愈況。汝唯莫必,無乎逃物。至道若是,大言亦然。周、遍、咸三者,異名同實,其指一也。嘗相與游乎無何有之宮,同合而論,無所終窮乎!嘗相與無為乎!澹而靜乎!漠而清乎!調而閒乎!寥已吾志,無往焉而不知其所至;去而來而不知其所止,吾已往來焉而不知其所終;彷徨乎馮閎,大知入焉而不知其所窮。物物者與物無際,而物有際者,所謂物際者也;不際之際,際之不際者也。謂盈虛衰殺,彼為盈虛非盈虛,彼為衰殺非衰殺,彼為本末非本末,彼為積散非積散也。」
新字:荘子曰:「夫子之問也,固不足質。正獲之問於監市履狶也,毎下愈況。汝唯莫必,無乎逃物。至道若是,大言亦然。周、遍、咸三者,異名同実,其指一也。嘗相与游乎無何有之宮,同合而論,無所終窮乎!嘗相与無為乎!澹而静乎!漠而清乎!調而閒乎!寥已吾志,無往焉而不知其所至;去而来而不知其所止,吾已往来焉而不知其所終;彷徨乎馮閎,大知入焉而不知其所窮。物物者与物無際,而物有際者,所謂物際者也;不際之際,際之不際者也。謂盈虚衰殺,彼為盈虚非盈虚,彼為衰殺非衰殺,彼為本末非本末,彼為積散非積散也。」
書き下し
荘子曰く、「夫子の問いや、固より質(ただ)すに足らず。正獲(せいかく)の監市(かんし)に問うに狶(ぶた)を履(ふ)むや、下る毎に愈よ況(あき)らかなり。汝は唯だ必とする莫かれ。物を逃るる無し。至道は是(かく)の若し。大言も亦た然り。周・遍・咸(かん)の三者は、名を異にして実を同じくす。其の指は一なり。嘗みに相与に無何有の宮に游び、同合して論ぜば、終窮する所無からんか。嘗みに相与に無為ならんか。澹(たん)にして静かならんか。漠にして清からんか。調いて閒(かん)ならんか。寥(りょう)として已(すで)に吾が志、往く無くして其の至る所を知らず。去りて来たりて其の止まる所を知らず。吾已に往来して其の終わる所を知らず。馮閎(ひょうこう)に彷徨すれば、大知焉(ここ)に入りて其の窮まる所を知らず。物を物とする者は物と際(さかい)無し。而して物に際有るは、所謂物際なる者なり。不際の際、際の不際なる者なり。盈虚衰殺(えいきょすいさい)を謂うも、彼は盈虚を為して盈虚に非ず、彼は衰殺を為して衰殺に非ず、彼は本末を為して本末に非ず、彼は積散を為して積散に非ざるなり」と。
現代語訳
荘子は言った。「あなたの問い方は、そもそも本質を突いていない。市場の監督官が豚の脂の乗り具合を足で踏んで調べる時、下のほうを踏むほど、よく分かる。あなたは『これだ』と決めつけてはならない。物から逃れられるものはない。至高の道はこのようなものだ。大いなる言葉もまた同じだ。『周(あまねく)』『遍(ゆきわたる)』『咸(すべて)』の三つは、名は違うが実は同じで、指すところは一つだ。ためしに一緒に、何もない宮殿に遊び、一つに合わせて論じてみれば、尽きるところがないだろう。ためしに一緒に、何もしないでいよう。淡々と静かでいよう。ひっそりと清らかでいよう。調和してのんびりしていよう。がらんとして、私の志は、どこへ行くでもなく、行き着く先も知らない。去ってはまた来て、どこで止まるかも知らない。私はすでに行き来しながら、その終わりを知らない。広々としたところをさまよえば、大いなる知恵もそこに入って、果てを知らない。物を物たらしめているものには、物との境目がない。物に境目があるのは、いわゆる物の境というものだ。境のない境であり、境の境でないものである。満ちる欠けると言っても、それは満ち欠けを起こしているが、満ち欠けそのものではない。衰え滅ぶことを起こしているが、衰え滅ぶことそのものではない。根本と末端を作るが、根本と末端そのものではない。集まり散ることを起こすが、集まり散ることそのものではないのだ」と。