荘子 / 知北遊
中國有人焉,非陰非陽,處於天地之閒,直且為人,將反於宗。自本觀之,生者,暗醷物也。雖有壽夭,相去幾何?須臾之說也。奚足以為堯、桀之是非?
新字:中国有人焉,非陰非陽,処於天地之閒,直且為人,将反於宗。自本観之,生者,暗醷物也。雖有寿夭,相去幾何?須臾之説也。奚足以為堯、桀之是非?
書き下し
中国に人有り。陰に非ず陽に非ず、天地の間に処る。直(た)だ且(しばら)く人と為り、将に宗に反らんとす。本より之を観れば、生なる者は、暗醷(あんい)の物なり。寿夭有りと雖も、相去ること幾何(いくばく)ぞ。須臾(しゅゆ)の説なり。奚(なん)ぞ以て堯・桀の是非と為すに足らんや。
現代語訳
中国に人がいる。陰でもなく陽でもなく、天地の間に身を置いている。ただしばらく人の形をとっているだけで、やがて根源に帰っていく。根本から見れば、生きているとは、気がぼんやりと凝り集まったものにすぎない。長生きも短命もあるが、その差はどれほどのものか。ほんの一瞬の話にすぎない。それでどうして、堯が正しいの桀が間違っているのと、論じるに足りようか。
解説
「ただしばらく人の形をとっているだけ」。この一句が身に沁みる一段です。私たちは、人であることを永続する状態だと思っています。しかし荘子から見れば、ほんのしばらくの間、気が凝り集まって人の形をしているだけです。そして長寿も短命も、その差はわずか。宇宙の時間から見れば、誤差にすぎません。だから、堯が正しいとか桀が悪いとか、論じるほどの話ではない、と。もちろん、この視点だけで生きるのは無理です。しかし、行き詰まった時に一度この高さから見下ろすと、驚くほど軽くなります。
この章句が説くこと
直且為人しばらくの形寿夭の差はわずか高さから見る
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