荘子 / 田子方
孔子曰:「夫子德配天地,而猶假至言以修心,古之君子,孰能脫焉?」老聃曰:「不然。夫水之於汋也,無為而才自然矣。至人之於德也,不修而物不能離焉,若天之自高,地之自厚,日月之自明,夫何修焉!」
新字:孔子曰:「夫子徳配天地,而猶仮至言以修心,古之君子,孰能脫焉?」老聃曰:「不然。夫水之於汋也,無為而才自然矣。至人之於徳也,不修而物不能離焉,若天之自高,地之自厚,日月之自明,夫何修焉!」
書き下し
孔子曰く、「夫子の徳は天地に配す。而も猶お至言を假(か)りて以て心を修む。古の君子、孰か能く焉(これ)を脱せんや」と。老聃曰く、「然らず。夫れ水の汋(わ)くに於けるや、無為にして才(はたらき)自ら然り。至人の徳に於けるや、修めずして物離るる能わず。天の自ら高く、地の自ら厚く、日月の自ら明らかなるが若し。夫れ何をか修めんや」と。
現代語訳
孔子は言った。「先生の徳は天地に匹敵します。それでもなお、至高の言葉を借りて心を修めておられる。昔の君子で、そこから抜け出せた人がいたでしょうか」。老聃は言った。「そうではない。水が湧き出るのは、何もしないのに、その働きが自ずとそうなっているのだ。至人が徳を持つのも、修めているのではなく、それでいて万物が離れられない。天が自ずと高く、地が自ずと厚く、日月が自ずと明るいのと同じだ。いったい何を修めるというのか」と。
解説
「修めているのではない」という老聃の答えが、根本を突く一段です。水は努力して湧き出るのではありません。ただ湧く。天は高くあろうと努力していません。ただ高い。至人の徳も同じで、修養の成果ではなく、自ずとそうなっている。ここには、努力の限界と、その先が示されています。修めているうちは、まだ修めている自分がいます。その自分が消えた時に、初めて自ずとそうなる。ただし、修めないでいきなりそこへ行けるわけでもありません。修めた末に、修めることを忘れる。それが到達点なのでしょう。