荘子 / 田子方
孔子曰:「請問遊是。」老聃曰:「夫得是,至美至樂也。得至美而遊乎至樂,謂之至人。」孔子曰:「願聞其方。」曰:「草食之獸不疾易藪,水生之蟲不疾易水,行小變而不失其大常也,喜怒哀樂不入於胸次。夫天下也者,萬物之所一也。得其所一而同焉,則四支百體將為塵垢,而死生終始將為晝夜而莫之能滑,而況得喪禍福之所介乎!棄隸者若棄泥塗,知身貴於隸也,貴在於我而不失於變。且萬化而未始有極也,夫孰足以患心!已為道者解乎此。」
新字:孔子曰:「請問遊是。」老聃曰:「夫得是,至美至楽也。得至美而遊乎至楽,謂之至人。」孔子曰:「願聞其方。」曰:「草食之獣不疾易藪,水生之虫不疾易水,行小変而不失其大常也,喜怒哀楽不入於胸次。夫天下也者,万物之所一也。得其所一而同焉,則四支百体将為塵垢,而死生終始将為昼夜而莫之能滑,而況得喪禍福之所介乎!棄隸者若棄泥塗,知身貴於隸也,貴在於我而不失於変。且万化而未始有極也,夫孰足以患心!已為道者解乎此。」
書き下し
孔子曰く、「請う、是に遊ぶを問わん」と。老聃曰く、「夫れ是を得るは、至美至楽なり。至美を得て至楽に遊ぶ、之を至人と謂う」と。孔子曰く、「願わくは其の方を聞かん」と。曰く、「草食の獣は藪(やぶ)を易(か)うるを疾(にく)まず、水生の虫は水を易うるを疾まず。小変を行いて其の大常を失わざればなり。喜怒哀楽は胸次に入らず。夫れ天下なる者は、万物の一とする所なり。其の一とする所を得て焉に同じくすれば、則ち四支百体は将に塵垢と為らんとし、而して死生終始は将に昼夜と為りて之を能く滑(みだ)す莫からんとす。而るを況んや得喪禍福の介(かい)する所をや。隷(れい)を棄つる者は泥塗を棄つるが若し。身の隷より貴きを知ればなり。貴きは我に在りて変に失わず。且つ万化して未だ始めより極まり有らざるなり。夫れ孰か以て心を患えしむるに足らんや。已に道を為す者は此を解す」と。
現代語訳
孔子は「そこに遊ぶとは、どういうことですか」と尋ねた。老聃は言った。「それを得れば、至高の美であり、至高の楽しみだ。至高の美を得て至高の楽しみに遊ぶ者、これを至人という」。孔子は「その方法をお聞かせください」と言った。老聃は言った。「草を食む獣は、住む藪が変わっても嫌がらない。水に棲む虫は、水が変わっても嫌がらない。小さな変化はあっても、大きな常なるものを失わないからだ。喜びも怒りも哀しみも楽しみも、胸の中に入り込まない。天下というものは、万物が一つになるところだ。その一つになるところを得て、それと同じになれば、手足も体も塵や垢のようなものになり、死と生、始まりと終わりは昼と夜のようになって、心を乱すことがなくなる。まして、得るとか失うとか、災いとか幸いとか、そんなものが何であろうか。奴僕を捨てるのは、泥を捨てるようなものだ。自分の身が奴僕より貴いと知っているからだ。貴いものは自分の内にあり、変化の中でも失われない。それに万物は変化し続けて、終わりがない。いったい何が心を煩わせるに足りようか。すでに道を修めた者は、これを分かっている」と。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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荘子・田子方孔子曰く、「夫子の徳は天地に配す。而も猶お至言を假(か)りて以て心を修む。古の君子、孰か能く焉(これ)を脱せんや」と。老聃曰く、「然らず。夫れ水の汋(わ)くに於けるや、無為にして才(はたらき)自ら然り。至人の徳に於けるや、修めずして物離るる能わず。天の自ら高く、地の自ら厚く、日月の自ら明らかなるが若し。夫れ何をか修めんや」と。
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荘子・至楽夫れ富める者は、身を苦しめ疾(と)く作(はたら)き、多く財を積みて尽く用うるを得ず。其の形を為むるや亦た外なり。夫れ貴き者は、夜以て日に継ぎ、善否を思慮す。其の形を為むるや亦た疏(そ)なり。人の生や、憂いと倶に生ず。寿なる者は惛惛(こんこん)として、久しく憂えて死せず。何ぞ苦しきや。其の形を為むるや亦た遠し。烈士は天下の為に善を見(あら)わす。未だ以て身を活かすに足らず。吾未だ善の誠に善なるか、誠に不善なるかを知らず。若し以て善と為さば、身を活かすに足らず。以て不善と為さば、以て人を活かすに足る。故に曰く、「忠諫聴かれずんば、蹲循(そんじゅん)して争うこと勿(なか)れ」と。故に夫の子胥(ししょ)は之を争いて以て其の形を残(そこな)えり。争わずんば、名も亦た成らざらん。誠に善有りや無しや。今、俗の為す所と其の楽しむ所とは、吾又た未だ楽の果たして楽なるか、果たして楽ならざるかを知らず。吾夫の俗の楽しむ所を観るに、群を挙げて趣(おもむ)く者は、誙誙然(けいけいぜん)として将に已むを得ざらんとするが如し。而も皆な楽と曰う者は、吾未だ之を楽しまず、亦た未だ之を楽しまずとせざるなり。果たして楽有りや無しや。吾は無為を以て誠に楽と為す。又た俗の大いに苦しむ所なり。故に曰く、「至楽は楽無く、至誉は誉無し」と。
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荘子・田子方孔子老聃に見ゆ。老聃新たに沐(もく)し、方(まさ)に将に髪を被(こうむ)りて乾かさんとす。慹然(ちつぜん)として人に非ざるに似たり。孔子便(しりぞ)きて之を待つ。少(しばら)くして見えて曰く、「丘や眩(げん)せるか。其れ信(まこと)に然るか。向(さき)に先生の形体は掘若(くつじゃく)として槁木のごとし。物を遺(わす)れ人を離れて独りに立つに似たり」と。老聃曰く、「吾は心を物の初めに遊ばしむ」と。
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荘子・外物荘子曰く、「人に能く遊ぶ有り。且つ遊ばざるを得んや。人にして遊ぶ能わず。且つ遊ぶを得んや。夫れ流遁(りゅうとん)の志、決絶の行は、噫(ああ)、其れ至知厚徳の任に非ざるかな。覆墜(ふくつい)して反らず、火のごとく馳せて顧みず。相与に君臣と為ると雖も、時なり。世を易(か)うれば以て相賎しむ無し。故に曰く、至人は行に留まらずと。夫れ古を尊びて今を卑しむは、学者の流なり。且つ豨韋氏(きいし)の流を以て今の世を観れば、夫れ孰か能く波(な)まざらん。唯だ至人のみ乃ち能く世に遊びて僻(かたよ)らず、人に順いて己を失わず。彼の教は学ばず、意を承けて彼とせず」と。
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荘子・天道夫子曰く、「夫れ道は、大に於いて終わらず、小に於いて遺(の)こさず。故に万物備わる。広広乎(こうこうこ)として其れ容れざる無く、淵乎(えんこ)として其れ測るべからず。形徳仁義は、神の末なり。至人に非ずんば孰(たれ)か能く之を定めん。夫れ至人の世を有(たも)つや、亦た大ならずや。而も以て之が累(わずら)いと為すに足らず。天下柄(へい)を奮(ふる)うも而も之と偕(とも)にせず。無假(むか)を審(つまび)らかにして而も利と与に遷(うつ)らず。物の真を極め、能く其の本を守る。故に天地を外にし、万物を遺(わす)れて、而も神は未だ嘗て困(くる)しむ所有らざるなり。道に通じ、徳に合し、仁義を退け、礼楽を賓(しりぞ)く。至人の心に定まる所有り」と。
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