荘子 / 田子方
孔子見老聃,老聃新沐,方將被髮而乾,慹然似非人。孔子便而待之,少焉見曰:「丘也眩與?其信然與?向者先生形體掘若槁木,似遺物離人而立於獨也。」老聃曰:「吾遊心於物之初。」
新字:孔子見老聃,老聃新沐,方将被髪而乾,慹然似非人。孔子便而待之,少焉見曰:「丘也眩与?其信然与?向者先生形体掘若槁木,似遺物離人而立於独也。」老聃曰:「吾遊心於物之初。」
書き下し
孔子老聃に見ゆ。老聃新たに沐(もく)し、方(まさ)に将に髪を被(こうむ)りて乾かさんとす。慹然(ちつぜん)として人に非ざるに似たり。孔子便(しりぞ)きて之を待つ。少(しばら)くして見えて曰く、「丘や眩(げん)せるか。其れ信(まこと)に然るか。向(さき)に先生の形体は掘若(くつじゃく)として槁木のごとし。物を遺(わす)れ人を離れて独りに立つに似たり」と。老聃曰く、「吾は心を物の初めに遊ばしむ」と。
現代語訳
孔子が老聃に会いに行った。老聃は髪を洗ったばかりで、髪を垂らして乾かしているところだった。じっと動かず、まるで人ではないようだった。孔子はいったん退いて待った。しばらくして会って言った。「私の目がどうかしていたのでしょうか。それとも本当だったのでしょうか。さきほど先生のお体は、掘り出した枯れ木のようでした。物を忘れ、人から離れて、ただ独り立っているかのようでした」。老聃は言った。「私は心を、万物の始まりに遊ばせていたのだ」と。
解説
髪を乾かしている老聃が、まるで人でないように見えた。この場面が印象的な一段です。孔子は思わず退いて待ちます。声をかけられる状態ではないと感じたのでしょう。そして老聃の答え。「心を万物の始まりに遊ばせていた」。何もしていないように見えて、最も遠いところにいたのです。日常の何気ない瞬間、髪を乾かしているようなただの時間に、その人の一番深いところが現れることがあります。特別な場面ではなく、無防備な瞬間にこそ、その人の本質は露わになるのです。
この章句が説くこと
遊心於物之初髪を乾かす老聃無防備な瞬間日常に現れる本質道
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