荘子 / 山木
「何謂天與人一邪?」仲尼曰:「有人,天也;有天,亦天也。人之不能有天,性也,聖人晏然體逝而終矣。」
新字:「何謂天与人一邪?」仲尼曰:「有人,天也;有天,亦天也。人之不能有天,性也,聖人晏然体逝而終矣。」
書き下し
「何をか天と人と一なりと謂うか」と。仲尼曰く、「人有るは、天なり。天有るも、亦た天なり。人の天を有つ能わざるは、性なり。聖人は晏然(あんぜん)として逝(ゆ)くに体して終わるなり」と。
現代語訳
「天と人が一つだ、とはどういうことですか」。孔子は言った。「人があるのも、天のはたらきである。天があるのも、また天のはたらきである。人が天を我がものにできないのは、それが本性だからだ。聖人は安らかに、流れゆくものと一体になって、そのまま終わるのだ」。
解説
天と人が一つだ、という主張の中身が語られる一段です。人が存在することも、天のはたらきの一部である。だから、天と人を対立させる必要はない。ただし「人が天を我がものにできない」とも言います。一つでありながら、支配はできない。この微妙な関係が肝心です。自然と一体だと言いながら、自然を思い通りにはできない。そして聖人は、安らかに流れゆくものと一体になって終わる。抗わず、支配せず、一緒に流れて終わる。この静けさが、山木篇のこの一連の対話の到達点です。
この章句が説くこと
天与人一有人天也支配できない一体安らかに流れる
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