荘子 / 達生
孫子出。扁子入坐,有間,仰天而歎。弟子問曰:「先生何為歎乎?」扁子曰:「向者休來,吾告之以至人之德,吾恐其驚而遂至於惑也。」弟子曰:「不然。孫子之所言是邪,先生之所言非邪,非固不能惑是。孫子所言非邪,先生所言是邪,彼固惑而來矣,又奚罪焉?」
新字:孫子出。扁子入坐,有間,仰天而嘆。弟子問曰:「先生何為嘆乎?」扁子曰:「向者休来,吾告之以至人之徳,吾恐其驚而遂至於惑也。」弟子曰:「不然。孫子之所言是邪,先生之所言非邪,非固不能惑是。孫子所言非邪,先生所言是邪,彼固惑而来矣,又奚罪焉?」
書き下し
孫子出づ。扁子入りて坐す。間有りて、天を仰ぎて歎ず。弟子問いて曰く、「先生は何為(なんす)れぞ歎ずるか」と。扁子曰く、「向(さき)に休来たる。吾之に告ぐるに至人の徳を以てす。吾恐る、其の驚きて遂に惑に至らんことを」と。弟子曰く、「然らず。孫子の言う所は是にして、先生の言う所は非か。非は固より是を惑わす能わず。孫子の言う所は非にして、先生の言う所は是か。彼は固より惑いて来たれるなり。又た奚(なん)の罪かあらん」と。
現代語訳
孫休が出て行った。扁子は部屋に入って座った。しばらくして、天を仰いでため息をついた。弟子が「先生はなぜため息をつかれるのですか」と尋ねた。扁子は言った。「さっき孫休が来た。私は彼に至人の徳を説いた。彼が驚いて、かえって混乱してしまうのではないかと恐れているのだ」。弟子は言った。「そんなことはありません。孫休の言うことが正しくて、先生の言うことが間違っているのでしょうか。間違ったものが、正しいものを惑わすことはできません。孫休の言うことが間違っていて、先生の言うことが正しいのでしょうか。それなら彼は、もともと惑って来たのです。先生に、どんな罪がありましょう」。
解説
この章句が説くこと
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荘子・達生孫休(そんきゅう)なる者有り。門に踵(いた)りて子扁慶子(しへんけいし)に詫(つ)げて曰く、「休は郷に居りて修めずと謂われず、難に臨みて勇ならずと謂われず。然り而して田原に歳(とし)に遇わず、君に事えて世に遇わず。郷里に賓(しりぞ)けられ、州部に逐(お)わる。則ち胡(なん)の罪か天に在らんや。休は悪(いず)くんぞ此の命に遇えるや」と。扁子曰く、「子は独り夫の至人の自ら行うを聞かざるか。其の肝胆を忘れ、其の耳目を遺(わす)れ、芒然(ぼうぜん)として塵垢の外に彷徨し、無事の業に逍遥す。是を『為して恃(たの)まず、長じて宰(つかさど)らず』と謂う。今汝は知を飾りて以て愚を驚かし、身を修めて以て汙(お)を明らかにす。昭昭乎(しょうしょうこ)として日月を揭(かか)げて行くが若きなり。汝は全き形躯を得、九竅(きゅうきょう)を具え、中道にして聾盲跛蹇(ろうもうはけん)に夭せずして人の数に比す。亦た幸いなり。又た何ぞ天を怨むに暇あらんや。子往け」と。
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荘子・達生扁子曰く、「然らず。昔者(むかし)鳥有り、魯の郊に止まる。魯君之を説(よろこ)び、為に太牢を具えて以て之を饗し、九韶を奏して以て之を楽しましむ。鳥は乃ち始めて憂悲眩視(げんし)して、敢えて飲食せず。此を之れ己を養うを以て鳥を養うと謂うなり。若し夫れ鳥を養うを以て鳥を養う者は、宜しく之を深林に棲ましめ、之を江湖に浮かべ、之に食(くら)わしむるに委蛇(いい)を以てせば、則ち平陸のみ。今休は、款啓(かんけい)寡聞の民なり。吾告ぐるに至人の徳を以てす。之を譬うれば鼷(ねずみ)を載するに車馬を以てし、鴳(うずら)を楽しましむるに鐘鼓を以てするが若きなり。彼又た奚(なん)ぞ能く驚く無からんや」と。
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荘子・達生生の情に達する者は、生の以て為す無き所を務めず。命の情に達する者は、知の奈何(いかん)ともする無き所を務めず。形を養うには必ず之に先んずるに物を以てす。物余り有りて形養われざる者有り。生有らんには必ず先ず形を離るる無し。形離れずして生亡(うしな)う者有り。生の来たるは却(しりぞ)くる能わず、其の去るは止むる能わず。悲しいかな。世の人は以て形を養えば以て生を存するに足ると為す。而も形を養うは果たして以て生を存するに足らず。則ち世は奚(なん)ぞ為すに足らんや。為すに足らずと雖も而も為さざるべからざる者は、其の為すこと免れざればなり。
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荘子・養生主老聃(ろうたん)死す。秦失(しんいつ)之を弔(とむら)い、三たび号(さけ)びて出づ。弟子曰く、「夫子の友に非ざるか」と。曰く、「然り」と。「然らば則ち焉(これ)を弔うこと此の若くにして、可ならんや」と。曰く、「然り。始めは、吾以て其の人と為せり。而して今は非なり。向(さき)に吾入りて焉を弔うに、老者の之を哭(こく)する有り、其の子を哭するが如し。少者の之を哭する、其の母を哭するが如し。彼の其の之に会する所以は、必ず言うを蘄めずして言い、哭するを蘄めずして哭する者有らん。是れ天を遁(のが)れ情に倍(そむ)き、其の受くる所を忘る。古者(いにしえ)之を遁天の刑と謂う。適(たまた)ま来たるは、夫子の時なり。適ま去るは、夫子の順なり。時に安んじて順に処(お)れば、哀楽(あいらく)入る能わず。古者是を帝の県解(けんかい)と謂う」と。
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荘子・山木明日、弟子荘子に問いて曰く、「昨日山中の木は、不材を以て其の天年を終うるを得たり。今主人の鴈は、不材を以て死せり。先生は将(は)た何にか処らん」と。荘子笑いて曰く、「周は将に夫の材と不材との間に処らんとす。材と不材との間は、之に似て非なり。故に未だ累(わずら)いを免れず。若し夫れ道徳に乗じて浮游せば則ち然らず。誉れ無く訾(そし)り無く、一たびは竜、一たびは蛇。時と俱に化して、肯(あ)えて専ら為すこと無し。一たびは上り一たびは下り、和を以て量と為し、万物の祖に浮游す。物を物として物に物とせられざれば、則ち胡(なん)ぞ得て累わされんや。此れ黄帝・神農の法則なり。若し夫れ万物の情、人倫の伝は、則ち然らず。合すれば則ち離れ、成れば則ち毀(やぶ)れ、廉(かど)あれば則ち挫かれ、尊ければ則ち議せられ、為す有れば則ち虧(か)け、賢なれば則ち謀られ、不肖なれば則ち欺かる。胡ぞ得て必せんや。悲しいかな。弟子之を志(しる)せ。其れ唯だ道徳の郷か」と。
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