荘子 / 秋水
夔謂蚿曰:「吾以一足趻踔而行,予無如矣。今子之使萬足,獨奈何?」蚿曰:「不然。子不見夫唾者乎?噴則大者如珠,小者如霧,雜而下者不可勝數也。今予動吾天機,而不知其所以然。」
新字:夔謂蚿曰:「吾以一足趻踔而行,予無如矣。今子之使万足,独奈何?」蚿曰:「不然。子不見夫唾者乎?噴則大者如珠,小者如霧,雑而下者不可勝数也。今予動吾天機,而不知其所以然。」
書き下し
夔蚿に謂いて曰く、「吾は一足を以て趻踔(ちんたく)して行く。予(われ)は如(し)くもの無し。今子の万足を使うは、独り奈何」と。蚿曰く、「然らず。子は夫の唾(つばき)する者を見ずや。噴けば則ち大なる者は珠の如く、小なる者は霧の如し。雑わりて下る者は勝(あ)げて数うべからず。今予は吾が天機を動かして、其の然る所以を知らず」と。
現代語訳
夔がヤスデに言った。「私は一本足でぴょんぴょん跳ねて歩いている。これで十分だと思っている。ところがおまえは、何万本もの足を使っている。いったいどうやっているのだ」。ヤスデは言った。「そうではない。唾を吐く人を見たことがないか。ぷっと吹けば、大きなものは珠のように、小さなものは霧のように飛び散る。混じり合って落ちる粒は、数え切れない。私も、自分の天のからくりを動かしているだけで、なぜそうなるのかは知らないのだ」。
解説
ヤスデの答えが見事な一段です。何万本もの足をどう動かしているのかと問われて、「知らない」と答える。唾を吐けば、大小さまざまな粒が飛び散るが、誰もその一粒一粒を制御していません。ヤスデも同じで、天のからくりが動いているだけです。熟練した人に「どうやっているのか」と聞くと、たいてい説明できません。考えていないからです。考えて動かしているうちは、まだ本物ではない。意識せずに動けるようになった時、初めてその人のものになります。理屈を知っていることと、できることは、別なのです。
この章句が説くこと
動吾天機而不知其所以然熟練は説明できない意識せずに動く体得
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