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荘子 / 天運

老子曰:「然。使道而可獻,則人莫不獻之於其君;使道而可進,則人莫不進之於其親;使道而可以告人,則人莫不告其兄弟;使道而可以與人,則人莫不與其子孫。然而不可者,無佗也,中無主而不止,外無正而不行。由中出者,不受於外,聖人不出;由外入者,無主於中,聖人不隱。名,公器也,不可多取。仁義,先王之蘧廬也,止可以一宿而不可以久處,覯而多責。古之至人,假道於仁,託宿於義,以遊逍遙之虛,食於苟簡之田,立於不貸之圃。逍遙,無為也;苟簡,易養也;不貸,無出也。古者謂是采真之遊。

新字:老子曰:「然。使道而可献,則人莫不献之於其君;使道而可進,則人莫不進之於其親;使道而可以告人,則人莫不告其兄弟;使道而可以与人,則人莫不与其子孫。然而不可者,無佗也,中無主而不止,外無正而不行。由中出者,不受於外,聖人不出;由外入者,無主於中,聖人不隠。名,公器也,不可多取。仁義,先王之蘧廬也,止可以一宿而不可以久処,覯而多責。古之至人,仮道於仁,託宿於義,以遊逍遙之虚,食於苟簡之田,立於不貸之圃。逍遙,無為也;苟簡,易養也;不貸,無出也。古者謂是采真之遊。

書き下し

老子曰く、「然り。道をして献ずべからしめば、則ち人は之を其の君に献ぜざる莫し。道をして進むべからしめば、則ち人は之を其の親に進めざる莫し。道をして以て人に告ぐべからしめば、則ち人は其の兄弟に告げざる莫し。道をして以て人に与うべからしめば、則ち人は其の子孫に与えざる莫し。然り而して可ならざる者は、佗(た)無きなり。中に主無くして止まらず、外に正無くして行われざればなり。中より出づる者は、外に受けられざれば、聖人は出ださず。外より入る者は、中に主無ければ、聖人は隠さず。名は、公器なり。多く取るべからず。仁義は、先王の蘧廬(きょろ)なり。止(とど)まるに一宿すべくして久しく処るべからず。覯(あ)いて責め多し。古の至人は、道を仁に假(か)り、宿を義に託して、以て逍遥の虚に遊び、苟簡(こうかん)の田に食(は)み、不貸の圃(ほ)に立つ。逍遥は、無為なり。苟簡は、養い易きなり。不貸は、出ださざるなり。古者(いにしえ)是を采真(さいしん)の遊と謂う。

現代語訳

老子は言った。「そうであろう。道が人に献上できるものなら、誰もが主君に献上しただろう。道が人に差し出せるものなら、誰もが親に差し出しただろう。道が人に告げられるものなら、誰もが兄弟に告げただろう。道が人に与えられるものなら、誰もが子孫に与えただろう。それができないのは、他でもない。内側に受け止める主体がなければ、道は留まらず、外に受け入れる下地がなければ、道は行われないからだ。内から出てくるものも、外に受け入れられなければ、聖人はそれを外に出さない。外から入ってくるものも、内に受け止める主体がなければ、聖人はそれを内に留めない。名声は、公共の道具である。多く取ってはならない。仁義は、昔の王が建てた仮の宿である。一晩泊まることはできても、長く住むことはできない。長居すれば咎めが多くなる。昔の至人は、仁を道の借り物とし、義を一夜の宿として、自在に遊ぶ虚空に遊び、質素な田で食べ、貸し借りのない畑に立った。自在に遊ぶとは、何もしないことだ。質素とは、養いやすいことだ。貸し借りがないとは、外に出さないことだ。昔の人はこれを『真を採る遊び』と呼んだ」と。

解説

「道は献上できない、差し出せない、告げられない、与えられない」。この四つの否定が強烈です。もし渡せるものなら、誰もが大切な人に渡していたはずだ、と。渡らない理由は明快で、受け取る側に受け止める主体がなければ、留まらないからです。教育の本質が、ここにあります。どれだけ良いことを言っても、相手の内側に受け止めるものがなければ、素通りするだけ。そして「仁義は一晩の宿」という比喩も印象的です。立派な理念も、長く住み着けば咎めのもとになる。宿として使い、住み込まない。この距離感が求められています。

この一句を、あなたの毎日に。

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