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荘子 / 天道

故《書》曰:「有形有名。」形名者,古人有之,而非所以先也。古之語大道者,五變而形名可舉,九變而賞罰可言也。驟而語形名,不知其本也;驟而語賞罰,不知其始也。倒道而言,迕道而說者,人之所治也,安能治人!驟而語形名賞罰,此有知治之具,非知治之道;可用於天下,不足以用天下。此之謂辯士,一曲之人也。禮法度數,形名比詳,古人有之,此下之所以事上,非上之所以畜下也。

新字:故《書》曰:「有形有名。」形名者,古人有之,而非所以先也。古之語大道者,五変而形名可舉,九変而賞罰可言也。驟而語形名,不知其本也;驟而語賞罰,不知其始也。倒道而言,迕道而説者,人之所治也,安能治人!驟而語形名賞罰,此有知治之具,非知治之道;可用於天下,不足以用天下。此之謂辯士,一曲之人也。礼法度数,形名比詳,古人有之,此下之所以事上,非上之所以畜下也。

書き下し

故に《書》に曰く、「形有り名有り」と。形名なる者は、古人も之れ有り。而れども先んずる所以に非ざるなり。古の大道を語る者は、五たび変じて形名挙ぐべく、九たび変じて賞罰言うべきなり。驟(にわか)に形名を語るは、其の本を知らざるなり。驟に賞罰を語るは、其の始めを知らざるなり。道を倒(さかしま)にして言い、道に迕(さから)いて説く者は、人の治むる所なり。安くんぞ能く人を治めんや。驟に形名賞罰を語るは、此れ治の具を知る有るも、治の道を知るに非ざるなり。天下に用うべきも、以て天下を用うるに足らず。此を之れ辯士と謂う。一曲の人なり。礼法度数、形名比詳は、古人も之れ有り。此れ下の上に事うる所以にして、上の下を畜う所以に非ざるなり。

現代語訳

だから『書経』にこうある。「形があり名がある」と。名目と実質の照合は、昔の人も持っていた。しかし、それを先に立てることはなかった。昔、大いなる道を語る者は、五段階を経て初めて名実の照合を持ち出し、九段階を経て初めて賞罰を口にした。いきなり名実の照合を語るのは、その根本を知らないからだ。いきなり賞罰を語るのは、その始まりを知らないからだ。道を逆さまにして語り、道に逆らって説く者は、人に治められる側の者だ。どうして人を治められようか。いきなり名実や賞罰を語るのは、政治の道具を知っているだけで、政治の道を知っているのではない。天下で使われることはできても、天下を使うには足りない。これを弁論家といい、一方に偏った人という。礼や法や制度や数値、名実の照合は、昔の人も持っていた。しかしこれは、下の者が上に仕えるための手段であって、上の者が下を養うための手段ではないのだ。

解説

前段を受けて、「いきなり賞罰を語るな」と念を押す一段です。決定的なのは最後の一文です。「礼法度数、形名比詳は、下の者が上に仕えるための手段であって、上の者が下を養うための手段ではない」。制度や数値管理は、下から上への報告や説明のための道具であって、上が下を扱うための道具ではない、と言うのです。この区別は鋭い。制度を使って人を管理しようとすると、それは道具を目的に取り違えたことになります。上が下を養う手段は、制度ではなく徳である。道具を知っている人は多いが、道を知っている人は少ない。そう突きつけられています。

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