春秋左氏伝 / 成公四年 我が族類に非ず
秋。公至自晉。欲求成于楚。而叛晉。季文子曰。不可。晉雖無道。未可叛也。國大臣睦。而邇於我。諸侯聽焉。未可以貳。史佚之志有之曰。非我族類。其心必異。楚雖大。非吾族也。其肯字我乎。公乃止。
新字:秋。公至自晋。欲求成于楚。而叛晋。季文子曰。不可。晋雖無道。未可叛也。国大臣睦。而邇於我。諸侯聴焉。未可以貳。史佚之志有之曰。非我族類。其心必異。楚雖大。非吾族也。其肯字我乎。公乃止。
書き下し
秋、公晉より至る。成を楚に求めて、晉に叛かんと欲す。季文子曰く、「不可なり。晉は無道なりと雖も、未だ叛く可からざるなり。國大に臣睦まじく、而して我に邇し。諸侯焉を聽く。未だ以って貳(ふた)しくす可からず。史佚の志に之れ有りて曰く、『我が族類に非ざれば、其の心必ず異なる』と。楚大なりと雖も、吾が族に非ざるなり。其れ肯へて我を字(やしな)はんや」と。公乃ち止む。
現代語訳
秋、公が晋から帰った。楚と講和して晋に叛こうとした。季文子が言った。「なりません。晋は無道であるとはいえ、まだ叛くべきではありません。国は大きく臣下は睦まじく、しかも我らに近い。諸侯もそれに従っています。まだ二心を抱くべきではない。史佚の記録にこうあります。『我が同族でなければ、その心は必ず異なる』と。楚は大国ではありますが、我らの同族ではありません。どうして進んで我らを養ってくれましょうか」。公はそこで思いとどまった。
解説
「非我族類、其心必異」——我が同族でなければ心は必ず異なる。この八字は、後世に異民族排斥の言葉として繰り返し用いられてきた。その歴史を踏まえたうえで、ここでの文脈を見ておきたい。魯が晋を見限って楚に乗り換えようとした場面で、季文子はそれを止めている。挙げた理由は三つ——晋は大国で内部が結束しており、地理的に近く、諸侯も従っている。そのうえで最後に史佚の言を引く。つまりこの一句は、乗り換え先が本当に自分を守ってくれるかという打算の文脈で使われている。周王朝の同姓諸侯と、南方の楚という当時の枠組みが前提にあり、今日そのまま人の集団に当てはめられる言葉ではない。読むなら、利害が一致していない相手に庇護を期待するな、という警告として読むのが妥当だろう。
この章句が説くこと
非我族類季文子庇護への期待乗り換えの打算
関連する章句
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『春秋左氏伝』成公十六年 妾は帛を衣ず九月、晉人季文子を苕丘に執ふ。公還りて、鄆に待つ。子叔聲伯をして季孫を晉に請はしむ。郤犨曰く、「苟も仲孫蔑を去りて季孫行父を止めば、吾子に國を與へ、公室より親しくせん」と。對へて曰く、「僑如の情は、子必ず之を聞けり。若し蔑と行父とを去らば、是れ大いに魯國を棄てて、寡君を罪するなり。若し猶ほ棄てずして、惠みて周公の福を徼め、寡君をして晉君に事ふるを得しめば、則ち夫の二人は、魯國の社稷の臣なり。若し朝に之を亡はば、魯必ず夕に亡びん。魯の仇讎に密邇するを以って、亡びて讎と為らば、之を治むるも何ぞ及ばん」と。郤犨曰く、「吾子の為に邑を請はん」と。對へて曰く、「嬰齊は、魯の常隸なり。敢へて大國に介して、以って厚きを求めんや。寡君の命を承けて以って請ふ。若し請ふ所を得ば、吾子の賜多し。又何をか求めん」と。范文子欒武子に謂ひて曰く、「季孫は魯に於いて、二君に相たり。妾は帛を衣ず、馬は粟を食まず。忠と謂はざる可けんや。讒慝を信じて忠良を棄てば、諸侯を若何せん。子叔嬰齊は君命を奉じて私無く、國家を謀りて貳あらず、其の身を圖りて其の君を忘れず。若し其の請を虛しくせば、是れ善人を棄つるなり。子其れ之を圖れ」と。乃ち魯の平を許し、季孫を赦す。冬、十月、叔孫僑如を出だして之に盟ふ。僑如齊に奔る。
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