春秋左氏伝 / 成公二年 此を翦滅して朝食せん
六月。壬申。師至于靡笄之下。齊侯使請戰。曰。子以君師。辱於敝邑。不腆敝賦。詰朝請見。對曰。晉與魯衛。兄弟也。來告曰。大國朝夕釋憾於敝邑之地。寡君不忍。使群臣請於大國。無令輿師。淹於君地。能進不能退。君無所辱命。齊侯曰。大夫之許。寡人之願也。若其不許。亦將見也。齊高固入晉師。桀石以投人。禽之。而乘其車。繫桑本焉。以徇齊壘。曰。欲勇者。賈余餘勇。癸酉。師陳于鞍。邴夏御齊侯。逢丑父為右。晉解張御郤克。鄭丘緩為右。齊侯曰。余姑翦滅此而朝食。不介馬而馳之。郤克傷於矢。流血及屨。未絕鼓音。曰。余病矣。張侯曰。自始合。而矢貫余手及肘。余折以御。左輪朱殷。豈敢言病。吾子忍之。緩曰。自始合。苟有險。余必下推車。子豈識之。然子病矣。張侯曰。師之耳目。在吾旗鼓。進退從之。此車。一人殿之。可以集事。若之何其以病。敗君之大事也。擐甲執兵。固即死也。病未及死。吾子勉之。左并轡。右援枹而鼓。馬逸不能止。師從之。齊師敗績。逐之。三周華不注。韓厥夢子輿謂己曰。且辟左右。故中御而從齊侯。邴夏曰。射其御者。君子也。公曰。謂之君子而射之。非禮也。射其左。越于車下。
新字:六月。壬申。師至于靡笄之下。斉侯使請戦。曰。子以君師。辱於敝邑。不腆敝賦。詰朝請見。対曰。晋与魯衛。兄弟也。来告曰。大国朝夕釈憾於敝邑之地。寡君不忍。使群臣請於大国。無令輿師。淹於君地。能進不能退。君無所辱命。斉侯曰。大夫之許。寡人之願也。若其不許。亦将見也。斉高固入晋師。桀石以投人。禽之。而乗其車。繋桑本焉。以徇斉塁。曰。欲勇者。賈余余勇。癸酉。師陳于鞍。邴夏御斉侯。逢丑父為右。晋解張御郤克。鄭丘緩為右。斉侯曰。余姑翦滅此而朝食。不介馬而馳之。郤克傷於矢。流血及屨。未絶鼓音。曰。余病矣。張侯曰。自始合。而矢貫余手及肘。余折以御。左輪朱殷。豈敢言病。吾子忍之。緩曰。自始合。苟有険。余必下推車。子豈識之。然子病矣。張侯曰。師之耳目。在吾旗鼓。進退従之。此車。一人殿之。可以集事。若之何其以病。敗君之大事也。擐甲執兵。固即死也。病未及死。吾子勉之。左并轡。右援枹而鼓。馬逸不能止。師従之。斉師敗績。逐之。三周華不注。韓厥夢子輿謂己曰。且辟左右。故中御而従斉侯。邴夏曰。射其御者。君子也。公曰。謂之君子而射之。非礼也。射其左。越于車下。
書き下し
……齊侯曰く、「余姑く此を翦滅して朝食せん」と。馬に介せずして之を馳す。郤克矢に傷つき、血流れて屨に及ぶ。未だ鼓の音を絕たず。曰く、「余病めり」と。張侯曰く、「始めて合ひしより、矢余が手及び肘を貫く。余折りて以って御す。左輪朱殷たり。豈に敢へて病を言はんや。吾子之を忍べ」と。緩曰く、「始めて合ひしより、苟くも險有らば、余必ず下りて車を推す。子豈に之を識らんや。然れども子病めり」と。張侯曰く、「師の耳目は、吾が旗鼓に在り。進退之に從ふ。此の車、一人之を殿(しづ)むれば、以って事を集む可し。之を若何ぞ其れ病を以って、君の大事を敗らんや。甲を擐(つらぬ)き兵を執る、固より死に即くなり。病未だ死に及ばず、吾子之を勉めよ」と。左は轡を并せ、右は枹を援(と)りて鼓す。馬逸して止む能はず。師之に從ふ。齊師敗績す。……
現代語訳
……斉侯は言った。「私はまずこいつらを片づけてから朝飯にしよう」。馬に甲をつけずに駆けさせた。晋の郤克は矢に当たり、血が流れて靴にまで達した。それでも太鼓の音を絶やさなかった。「私は参った」と言った。御者の張侯が言った。「戦い始めてから、矢が私の手と肘を貫いています。私はそれを折って手綱を取っています。左の車輪は血で黒赤に染まっている。どうして参ったなどと言えましょう。あなたも堪えてください」。右に立つ鄭丘緩が言った。「戦い始めてから、険しい所があれば私は必ず降りて車を押しています。あなたはご存じないでしょう。しかしあなたは参っておられる」。張侯が言った。「軍の耳と目は、我らの旗と太鼓にあります。進退はこれに従うのです。この車は、一人が持ちこたえれば事を成せます。どうして怪我くらいで君の大事を損なえましょう。甲を着て武器を執るとは、もとより死に赴くことです。怪我はまだ死に至っていません。どうか励んでください」。左手で手綱を合わせ持ち、右手で撥を取って太鼓を打った。馬は走り出して止まらず、軍がこれに従った。斉軍は総崩れになった。……
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』成公三年・四年 兩君の此の堂に在る十二月甲戌、晉六軍を作る。韓厥・趙括・鞏朔・韓穿・荀騅・趙旃、皆卿と為る。鞍の功を賞するなり。齊侯晉に朝す。將に玉を授けんとす。郤克趨り進みて曰く、「此の行や、君婦人の笑辱の為なり。寡君未だ之を敢へて任ぜず」と。晉侯齊侯を享す。齊侯韓厥を視る。韓厥曰く、「君厥を知るか」と。齊侯曰く、「服改まれり」と。韓厥登りて爵を舉げて曰く、「臣の敢へて死を愛まざりしは、兩君の此の堂に在るが為なり」と。荀罃の楚に在るや、鄭の賈人將に諸を褚中に窴(い)れて以て出ださんとする有り。既に之を謀りて、未だ行はず。而して楚人之を歸す。賈人晉に如く。荀罃善く之を視ること、實に己を出だせしが如し。賈人曰く、「吾其の功無し、敢へて其の實を有たんや。吾は小人なり、以て厚く君子を誣ふべからず」と。遂に齊に適く。四年春、宋の華元來聘す。嗣君を通ずるなり。杞伯來朝す。叔姬を歸すが故なり。夏、公晉に如く。晉侯公を見ること敬ならず。季文子曰く、「晉侯必ず免れず。詩に曰く、『之を敬せよ、之を敬せよ。天惟れ顯かなり。命易からざるかな』と。夫れ晉侯の命は、諸侯に在り。敬せざるべけんや」と。
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史記 斉太公世家懿公の立つや、驕りて、民附かず。斉人其の子を廃して公子元を衛より迎へて之を立つ。是れを恵公と為す。恵公は桓公の子なり。其の母は衛の女にして、少衛姫と曰ふ。斉の乱を避け、故に衛に在り。恵公の二年、長翟来る。王子城父、攻めて之を殺し、之を北門に埋む。晋の趙穿、其の君霊公を弑す。十年、恵公卒し、子の頃公無野立つ。初め、崔杼、恵公に寵有り。恵公卒し、高・国其の偪るを畏れ、之を逐ふ。崔杼、衛に奔る。頃公の元年、楚の荘王彊く、陳を伐つ。二年、鄭を囲む。鄭伯降り、已にして復た鄭伯を国せしむ。六年春、晋、郤克を斉に使はす。斉、夫人をして帷中にて之を観しむ。郤克上る。夫人之を笑ふ。郤克曰く、「是れに報いずんば、復た河を渉らじ」と。帰りて斉を伐たんことを請ふ。晋侯許さず。斉の使晋に至る。郤克、斉の使者四人を河内に執へて之を殺す。八年、晋、斉を伐つ。斉、公子彊を以て晋に質とす。晋の兵去る。十年春、斉、魯・衛を伐つ。魯・衛の大夫、晋に如きて師を請ふ。皆郤克に因る。晋、郤克をして車八百乗を以て中軍の将と為し、士燮は上軍に将とし、欒書は下軍に将として、以て魯・衛を救ひ、斉を伐たしむ。六月壬申、斉侯の兵と靡笄の下に合す。癸酉、鞍に陳す。逢丑父、斉の頃公の右と為る。頃公曰く、「之に馳せよ。晋の軍を破りて会食せん」と。郤克を射傷つけ、流血履に至る。克、還りて壁に入らんと欲す。其の御曰く、「我始め入りしより、再び傷つくも、敢て疾を言はず、士卒を恐懼せしめんことを恐るればなり。願はくは子之を忍べ」と。遂に復た戦ふ。戦ひて、斉急なり。丑父、斉侯の得られんことを恐れ、乃ち処を易へ、頃公右と為る。車、木に絓りて止まる。晋の小将韓厥、斉侯の車の前に伏して、曰く「寡君、臣をして魯・衛を救はしむ」と。之に戯る。丑父、頃公をして下りて飲を取らしめ、因りて亡るるを得て、脱して去り、其の軍に入る。晋の郤克、丑父を殺さんと欲す。
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『春秋左氏伝』成公二年 逢丑父、君と位を易う其の右を射る、車中に斃る。綦毋張車を喪ひ、韓厥に從ひて曰く、「請ふ寓乘せん」と。左右に從ふ、皆之を肘し、後に立たしむ。韓厥俛して其の右を定む。逢丑父公と位を易ふ。將に華泉に及ばんとし、驂木に絓りて止まる。丑父轏中に寢ね、蛇其の下より出づ、肱を以て之を擊ち、傷つきて之を匿す、故に車を推して及ばるること能はず。韓厥縶を執りて馬前にし、再拜稽首し、觴を奉じ璧を加へて以て進めて、曰く、「寡君群臣をして魯・衛の為に請はしめて、曰く、『輿師をして、君の地に陷入せしむること無かれ』と。下臣不幸にして、屬戎行に當り、逃隱する所無し。且つ奔辟して、兩君を忝めんことを懼る。臣戎士を辱む、敢へて不敏を告ぐ。官を攝りて乏を承けん」と。丑父公をして下りて華泉に如き飲を取らしむ。鄭周父佐車に御し、宛茷右と為り、齊侯を載せて以て免る。韓厥丑父を獻ず、郤獻子將に之を戮せんとす。呼びて曰く、「今より其の君に代りて患に任ずる者有ること無からん。此に一有り、將に戮せられんとするか」と。
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国語・晋語五靡笄の役、郤献子傷つきて曰く、「余喙(かい)を病む」と。張侯(ちょうこう)御して曰く、「三軍の心は、此の車に在り。其の耳目は旗鼓に在り。車に退表無く、鼓に退声無くして、軍事集(な)る。吾子之を忍べ、以て病を言う可からず。命を廟に受け、脤(しん)を社に受け、甲冑して死を効(いた)すは、戎の政なり。病むは未だ死に若かず、祗(まさ)に以て志を解かんのみ」と。乃ち左に轡を并(あわ)せ、右に枹(ばち)を援(と)りて之を鼓す。馬逸して止むる能わず、三軍之に従う。斉の師大いに敗れ、之を逐いて、三たび華不注(かふちゅう)の山を周(めぐ)る。
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『春秋左氏伝』成公二年 曲県繁纓を請う二年春、齊侯我が北鄙を伐ち、龍を圍む。頃公の嬖人盧蒲就魁、焉に門す。龍人之を囚ふ。齊侯曰く、「殺すこと勿かれ。吾而と盟ひ、而の封に入ること無からん」と。聽かず。殺して諸を城上に膊す。齊侯親ら鼓し、士城に陵る。三日にして、龍を取る。遂に南に侵し、巢丘に及ぶ。衛侯孫良夫・石稷・甯相・向禽をして、將に齊を侵さんとせしむ。齊の師と遇ふ。石子還らんと欲す。孫子曰く、「不可なり。師を以て人を伐ち、其の師に遇ひて還らば、將に君を何とか謂はん。若し能はざるを知らば、則ち出づること無きに如かず。今既に遇へり、戰ふに如かざるなり」と。夏、有(此の下、底本に闕文有り)。石成子曰く、「師敗れたり。子少しく須たずんば、眾盡きんことを懼る。子師徒を喪はば、何を以てか復命せん」と。皆對へず。又曰く、「子は國の卿なり。子を隕さば、辱なり。子眾を以て退け、我此に乃ち止まらん」と。且つ車の來ること甚だ眾しと告ぐ。齊の師乃ち止まり、鞫居に次す。新築の人仲叔于奚孫桓子を救ふ、桓子是を以て免る。既にして、衛人之を賞するに邑を以てす。辭して、曲縣・繁纓を請ひて以て朝す。之を許す。
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『春秋左氏伝』成公二年 郤克、謗りを分かつ孫桓子新築に還り、入らず、遂に晉に如きて師を乞ふ。臧宣叔も亦た晉に如きて師を乞ふ。皆郤獻子を主とす。晉侯之に七百乘を許す。郤子曰く、「此れ城濮の賦なり。先君の明と、先大夫の肅と有り、故に捷てり。克は先大夫に於て、役を為すに能ふ無し。請ふ八百乘」と。之を許す。郤克中軍に將たり、士燮上軍に將たり、欒書下軍に將たり、韓厥司馬と為り、以て魯・衛を救ふ。臧宣叔晉の師を逆へ、且つ之を道く。季文子師を帥ゐて之に會す。衛の地に及び、韓獻子將に人を斬らんとす。郤獻子馳せて將に之を救はんとす。至れば、則ち既に之を斬れり。郤子速かに以て徇へしめ、其の僕に告げて曰く、「吾以て謗りを分つなり」と。師齊の師に莘に從ふ。
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