信心銘 / 第九章
無咎無法 不生不心 能隨境滅 境逐能沉 境由能境 能由境能
新字:無咎無法 不生不心 能随境滅 境逐能沈 境由能境 能由境能
書き下し
咎(とが)無(な)ければ法(ほう)無(な)く、生(しょう)ぜざれば心(しん)ならず。能(のう)は境(きょう)に隨(したが)ひて滅(めっ)し、境(きょう)は能(のう)を逐(お)ひて沉(しづ)む。境(きょう)は能(のう)に由(よ)りて境(きょう)たり、能(のう)は境(きょう)に由(よ)りて能(のう)たり。
現代語訳
咎がなければ「もの」も無く、起こらなければ「心」でもない。見る側は見られる対象とともに滅び、対象は見る側を追って沈む。対象は見る側があってはじめて対象であり、見る側は対象があってはじめて見る側である。
解説
「能」は認識する側、「境」は認識される対象を指す。この章は、その二つが独立に存在しないことを、往復させながら示す。見る者がいなければ見られるものは対象として立たず、見られるものがなければ見る者も見る者ではない。片方が消えれば、もう片方も一緒に消える。主観と客観という、いちばん頑丈に見える枠組みが、実は相互にもたれ合っているだけだという指摘である。これは理屈の遊びではない。「あの人が悪い」という判断は、悪いと見る自分と対で立ち上がっている。対象だけを取り除こうとしても構図は残り、別の対象が入るだけだ。構図ごと落ちるほかない、というのがこの章の含みである。
この章句が説くこと
能と境主客相依不生
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