史記 / 魏世家
魏文侯李克に謂ひて曰、今置く所は成に非ずんば則ち璜なり、二子何如。李克対へて曰、君察せざるが故なり。居りては其の親しむ所を視、富みては其の与ふる所を視、達しては其の挙ぐる所を視、窮しては其の為さざる所を視、貧しくては其の取らざる所を視る。五者以て之を定むるに足れり、何ぞ克を待たんや。文侯曰、先生舍に就け、寡人の相定まれり。
新字:魏文侯李克に謂ひて曰、今置く所は成に非ずんば則ち璜なり、二子何如。李克対へて曰、君察せざるが故なり。居りては其の親しむ所を視、富みては其の与ふる所を視、達しては其の挙ぐる所を視、窮しては其の為さざる所を視、貧しくては其の取らざる所を視る。五者以て之を定むるに足れり、何ぞ克を待たんや。文侯曰、先生舎に就け、寡人の相定まれり。
書き下し
魏文侯李克に謂ひて曰く、「今置く所は成に非ずんば則ち璜なり、二子何如」と。李克対へて曰く、「君察せざるが故なり。居りては其の親しむ所を視、富みては其の与ふる所を視、達しては其の挙ぐる所を視、窮しては其の為さざる所を視、貧しくては其の取らざる所を視る。五者以て之を定むるに足れり、何ぞ克を待たんや」と。文侯曰く、「先生舍に就け、寡人の相定まれり」と。
現代語訳
「人を見るには、五つの場面を見ればよい」——賢者・李克が示した、人物鑑定の、実に実践的な、五つの基準です。魏の文侯が、宰相を、二人の候補(魏成子と翟璜)から選ぶにあたり、賢者・李克に、意見を求めました。「今、宰相に据えようとしているのは、成(魏成子)か、璜(翟璜)の、どちらかだ。この二人を、どう思うか」と。李克は、(最初、身分を理由に辞退しましたが、)文侯に促されて、こう答えます。「(お迷いになるのは、)君主が、(人を見る、その基準を、)よく、お考えになっていないから、です」と。そして、人物を見極めるための、五つの基準を、示しました。第一に、「(その人が、)普段、(何もない、平常の時に、)どのような人と、親しく交わっているかを、見よ(居視其所親)」。付き合う相手が、その人を、映し出す。第二に、「(その人が、)富み栄えているときに、その富を、(何に、誰に、)与えて(使って)いるかを、見よ(富視其所與)」。豊かなときの、お金の使い方に、その人の値打ちが現れる。第三に、「(その人が、)出世し、地位を得たときに、どのような人物を、(部下として)推挙し、引き上げているかを、見よ(達視其所舉)」。地位を得たとき、誰を用いるかに、その器が、現れる。第四に、「(その人が、)窮地に、追い詰められたときに、(それでも、)けっして、しないことは、何かを、見よ(窮視其所不為)」。追い詰められたときに、なお、守る一線に、その人の芯が、現れる。第五に、「(その人が、)貧しく、困窮しているときに、(それでも、)けっして、受け取らないものは、何かを、見よ(貧視其所不取)」。貧しいときに、なお、手を出さないものに、その人の清廉が、現れる。李克は、こう結びました。「この五つを、見れば、人物を、見極めるには、十分です。どうして、私の(意見など、)お待ちになる必要が、ありましょうか」と。文侯は、「先生、もう、お帰りください。私の、宰相は、決まりました」と、答えたといいます。ここに、人物鑑定についての教訓があります。第一に、人を見るには、(その人の、言葉や、うわべの評判ではなく、)「特定の五つの場面での、具体的な振る舞い」を、見ればよいということ。平常時に、誰と親しむか。豊かなときに、何に使うか。地位を得たときに、誰を引き上げるか。窮したときに、何を、しないか。貧しいときに、何を、取らないか。第二に、とりわけ、「順境(富・達)」と、「逆境(窮・貧)」の、両方での、振る舞いを、見ることが、大切だということ。順境では、その人の、器と価値観が現れ、逆境では、その人の、芯と清廉が、現れる。第三に、人物鑑定は、(複雑な、直感や、印象ではなく、)このように、具体的な、観察の基準を持てば、誰にでも、できるということ。組織や人事で、人をうわべの評判でなく具体的な五つの場面での振る舞いで見ること、順境と逆境の両方での振る舞いを見ることが大切だと知ること、そして人物鑑定に具体的な観察の基準を持つこと——李克の「五視」は、人を見抜くための、実に実践的な物差しを教えます。