史記 / 楚世家
八年,伐陸渾戎,遂至洛,觀兵於周郊。周定王使王孫滿勞楚王。楚王問鼎小大輕重,對曰:「在德不在鼎。」莊王曰:「子無阻九鼎!楚國折鉤之喙,足以爲九鼎。
新字:八年,伐陸渾戎,遂至洛,観兵於周郊。周定王使王孫満労楚王。楚王問鼎小大軽重,対曰:「在徳不在鼎。」荘王曰:「子無阻九鼎!楚国折鉤之喙,足以為九鼎。
書き下し
莊王洛に至り、兵を周の郊に観る。周の定王王孫満をして楚王を労はしむ。楚王鼎の小大軽重を問ふ。対へて曰く、「徳に在りて鼎に在らず」と。莊王曰く、「子九鼎を阻む無かれ。楚国の鉤の喙を折らば、以て九鼎と為すに足る」と。
現代語訳
莊王は洛に至り、周の郊外で軍を閲兵した。周の定王は王孫満を送って楚王をねぎらわせた。楚王は九鼎の大きさと重さを尋ねた。王孫満は答えた。「大事なのは徳にあって、鼎にはありません」。莊王は言った。「そなたは九鼎を頼みにするな。楚国の鉤(武器)の先を折って集めれば、それだけで九鼎を作るに足りるのだ」。
解説
「権威の重みは、その象徴(器物)にあるのではなく、その徳にある」——「問鼎」の語源となった、楚の荘王と、周の使者との、緊迫したやり取りです。楚の荘王は、その武威を、天下に示すため、軍を率いて北上し、(天子の都である)洛のほとりまで進み、周の郊外で、(威圧するように、)軍事パレードを、行いました。周王朝は、すでに、衰えきっており、これは、明らかな、恫喝でした。周の定王は、王孫満を使者として遣わし、楚王を、(表向き、)ねぎらわせます。すると、荘王は、その使者に、とんでもないことを、問いました。「(周王室に伝わる、天子の証である、)九つの鼎(かなえ)は——その大きさ、その重さは、どれほどのものか(問鼎小大輕重)」と。天子の権威の象徴である「九鼎」の重さを問う——これは、「(そんなもの、)我が楚が、運び去って、天下を、取ってやろうか」という、露骨な、王位簒奪の、意思表示でした。(ここから、「鼎の軽重を問う」=権威者の実力を、値踏みし、その地位を狙う、という言葉が、生まれました。)この、無礼きわまる問いに対し、周の使者・王孫満は、少しも、動じませんでした。そして、たった一言で、鋭く、切り返したのです。「(天子たる者の権威は、)その徳に、あるのであって、鼎(という、器物)に、あるのでは、ありません(在德不在鼎)」と。天下を治める資格は、(鼎という、)権威の象徴を、手に入れることによって、得られるのではなく、(その者の、)徳によってこそ、得られるのだ、と。荘王は、(力にまかせて、)なお、こう言い返します。「九鼎など、(大したものではあるまい。)我が楚の国の、(武器である)鉤の、その先端を、折り集めるだけでも、九鼎くらい、作れるわ」と。しかし——(次に見るように、)王孫満の、堂々たる反論の前に、荘王は、ついに、引き下がることになるのです。ここに、権威と徳についての教訓があります。第一に、権威や、地位の、本当の重みは——その、目に見える象徴(地位、肩書き、権威の器物)に、あるのではなく、それを持つ者の「徳」に、あるということ(在德不在鼎)。肩書きや、地位を、手に入れさえすれば、権威が、手に入る、と思うのは、大きな誤りである。第二に、力(武力・権力)だけで、権威の象徴を、奪い取っても——その者に、徳がなければ、真の権威は、けっして、手に入らない。第三に、そして——力を背景に、無礼な問いを突きつけられても、(怯まず、)本質を、一言で、突き返す、その、静かな胆力(王孫満)。組織や人生で、権威や地位の本当の重みが象徴や肩書きでなくその者の徳にあると知ること、力で地位を奪っても徳がなければ真の権威は得られないと理解すること、そして力ずくの相手にも本質を突き返す胆力を持つこと——「鼎の軽重を問う」の逸話は、権威の本質が徳にあることを教えます。
この章句が説くこと
楚荘王問鼎在徳不在鼎権威の重みは象徴でなく徳にある鼎の軽重を問う肩書きだけでは権威は得られない
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『春秋左氏伝』宣公三年 徳に在りて鼎に在らず楚子陸渾の戎を伐ち、遂に雒に至り、兵を周疆に觀す。定王王孫滿をして楚子を勞はしむ。楚子鼎の大小輕重を焉に問ふ。對へて曰く、「德に在りて鼎に在らず。昔夏の方に德有るや、遠方物を圖し、金を九牧に貢ぎ、鼎を鑄て物を象り、百物にして之が備へを為す。民をして神姦を知らしむ、故に民川澤山林に入りて、不若に逢はず、螭魅罔兩、能く之に逢ふ莫し。用って能く上下に協ひ、以って天休を承く。桀昏德有り、鼎商に遷る、載祀六百。商紂暴虐にして、鼎周に遷る。德の休明なれば、小なりと雖も、重きなり。其の姦回昏亂なれば、大なりと雖も、輕きなり。天明德に祚(さいはひ)す、底(いた)り止まる所有り。成王鼎を郟鄏に定む、世を卜すること三十、年を卜すること七百、天の命ずる所なり。周德衰ふと雖も、天命未だ改まらず。鼎の輕重、未だ問ふ可からざるなり」と。
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史記 周本紀定王の元年、楚の荘王陸渾の戎を伐ち、洛に次り、人をして九鼎を問はしむ。王王孫満をして応へて設くるに辞を以てせしむ。楚の兵乃ち去る。十年、楚の荘王鄭を囲む。鄭伯降り、已にして之を復す。十六年、楚の荘王卒す。二十一年、定王崩じ、子簡王夷立つ。簡王の十三年、晋其の君厲公を殺し、子周を周より迎へ、立てて悼公と為す。十四年、簡王崩じ、子霊王泄心立つ。霊王の二十四年、斉の崔杼其の君荘公を弒す。二十七年、霊王崩じ、子景王貴立つ。景王の十八年、后の太子聖にして蚤く卒す。二十年、景王子朝を愛し、之を立てんと欲す。会崩ず。子丐の党与に立つを争ふ。国人長子猛を立てて王と為す。子朝攻めて猛を殺す。猛を悼王と為す。晋人子朝を攻めて丐を立つ。是を敬王と為す。敬王の元年、晋人敬王を入る。子朝自立し、敬王入るを得ず、沢に居る。四年、晋諸侯を率ゐて敬王を周に入る。子朝臣と為り、諸侯周に城く。十六年、子朝の徒復た乱を作し、敬王晋に奔る。十七年、晋の定公遂に敬王を周に入る。三十九年、斉の田常其の君簡公を殺す。四十一年、楚陳を滅ぼす。孔子卒す。四十二年、敬王崩じ、子元王仁立つ。元王八年にして崩じ、子定王介立つ。定王の十六年、三晋智伯を滅ぼし、分かちて其の地を有つ。二十八年、定王崩じ、長子去疾立つ。是を哀王と為す。哀王立つこと三月、弟叔襲ひて哀王を殺して自立す。是を思王と為す。思王立つこと五月、少弟嵬攻めて思王を殺して自立す。是を考王と為す。此の三王は皆定王の子なり。考王十五年にして崩じ、子威烈王午立つ。考王其の弟を河南に封ず。是を桓公と為し、以て周公の官職を続がしむ。
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戦国策・秦興師臨周而求九鼎秦、師を興して周に臨みて九鼎を求む。周君これを患ひ、以て顏率に告ぐ。顏率曰く、「大王憂ふる勿かれ、臣請ふ東のかた齊に救ひを借らん」と。顏率齊に至り、齊王に謂ひて曰く、「夫れ秦の無道を為すや、兵を興して周に臨みて九鼎を求めんと欲す。周の君臣、内に自ら計を尽くすに、秦に与へんよりは大国に帰するに若かず。夫れ危国を存するは美名なり、九鼎を得るは厚寶なり。願はくは大王これを図れ」と。齊王大いに悦び、師五萬人を発し、陳臣思をして将として以て周を救はしめ、秦兵罷む。齊将九鼎を求む、周君また之を患ふ。顏率曰く、「大王憂ふる勿かれ、臣請ふ東のかたこれを解かん」と。顏率齊に至り、齊王に謂ひて曰く、「周、大国の義に頼りて、君臣父子相保つを得たり。願はくは九鼎を献ぜん、識らず大国何れの塗より従ひてこれを齊に致さんとするか」と。齊王曰く、「寡人将に径を梁に寄せんとす」と。顏率曰く、「不可なり。夫れ梁の君臣九鼎を得んと欲し、これを暉臺の下、少海の上に謀ること、其の日久し。鼎梁に入らば、必ず出でざらん」と。齊王曰く、「寡人将に径を楚に寄せんとす」と。対へて曰く、「不可なり。楚の君臣九鼎を得んと欲し、これを葉庭の中に謀ること、其の日久し。若し楚に入らば、鼎必ず出でざらん」と。王曰く、「寡人終に何れの塗より従ひてこれを齊に致さんや」と。顏率曰く、「弊邑固より竊かに大王の為にこれを患ふ。夫れ鼎なる者は、䤈壺醬甀の耳の如く、懐き挾み提げ挈げて以て齊に至るべき者に非ず。鳥集ひ烏飛び、兔興り馬逝くが如く、灕然として齊に止まる者に非ず。昔周の殷を伐つや、九鼎を得たり。凡そ一鼎にして九萬人これを輓く、九九八十一萬人、士卒師徒、器械被具、備ふる所以の者此れに稱ふ。今大王縦ひ其の人有るとも、何れの塗より従ひて出でんや。臣竊かに大王の為に私かにこれを憂ふ」と。齊王曰く、「子の数々来たる者は、猶ほ与ふる無きのみ」と。顏率曰く、「敢へて大国を欺かず、疾く出だす所を定めば、弊邑鼎を遷して以て命を待たん」と。齊王乃ち止む。
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史記 楚世家韓嘗て二十万の衆を以て晋の城下に辱めらる。鋭士死し、中士傷つき、而して晋抜けず。公の百韓無くして以て周を図るは、此れ天下の知る所なり。夫れ怨みを両周に結びて以て騶・魯の心を塞ぎ、交はりを斉に絶ち、声を天下に失はば、其の事を為すこと危ふし。夫れ両周を危ふくして以て三川を厚くせば、方城の外必ず韓の為に弱められん。何を以て其の然るを知る。西周の地は、長きを絶ちて短きを補ふも、百里に過ぎず。名は天下の共主為るも、其の地を裂くも以て国を肥やすに足らず、其の衆を得るも以て兵を勁くするに足らず。之を攻むること無しと雖も、名は君を弑すと為す。然り而して事を好むの君、攻むるを喜ぶの臣、号を発し兵を用ふるに、未だ嘗て周を以て終始と為さざるはあらず。是れ何ぞや。祭器の焉に在るを見て、器の至らんことを欲して君を弑するの乱を忘るればなり。今韓器の楚に在るを以て、臣恐らくは天下器を以て楚を讎とせん。臣請ふ之を譬へん。夫れ虎の肉は臊く、其の兵は身を利す。人猶ほ之を攻む。若し沢中の麋をして虎の皮を蒙らしめば、人の之を攻むること必ず虎に万せん。楚の地を裂かば、以て国を肥やすに足り、楚の名を詘(くじ)かば、以て主を尊ぶに足る。今子将に以て天下の共主を誅残し、三代の伝器に居り、三翮六翼を呑みて、以て世主に高ぶらんと欲す。貪に非ずして何ぞ。周書に曰く『起たんと欲して先んずること無かれ』と。故に器南すれば則ち兵至らん」と。是に於て楚の計輟みて行はれず。十九年、秦楚を伐つ。楚の軍敗れ、上庸・漢北の地を割きて秦に予ふ。二十年、秦の将白起我が西陵を抜く。二十一年、秦の将白起遂に我が郢を抜き、先王の墓夷陵を焼く。楚の襄王の兵散じ、遂に復た戦はず、東北のかた陳城に保つ。二十二年、秦復た我が巫・黔中郡を抜く。二十三年、襄王乃ち東地の兵を収め、十余万を得て、復た西のかた秦の抜く所の我が江旁の十五邑を取りて以て郡と為し、秦を距ぐ。
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