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史記 / 晋世家

介子推曰、獻公の子九人、唯だ君のみ在り。天未だ晉を絶たず、必ず将に主有らんとす。晉の祀を主る者、君に非ずして誰ぞ。天実に之を開く、二三子以て己の力と為す、亦た誣ならずや。人の財を竊むすら、猶ほ是れ盜と曰ふ、況んや天の功を貪りて以て己の力と為すをや。下は其の罪を冒し、上は其の姦を賞す、上下相蒙く、与に処り難し。

新字:介子推曰、献公の子九人、唯だ君のみ在り。天未だ晉を絶たず、必ず将に主有らんとす。晉の祀を主る者、君に非ずして誰ぞ。天実に之を開く、二三子以て己の力と為す、亦た誣ならずや。人の財を竊むすら、猶ほ是れ盗と曰ふ、況んや天の功を貪りて以て己の力と為すをや。下は其の罪を冒し、上は其の姦を賞す、上下相蒙く、与に処り難し。

書き下し

介子推曰く、「獻公の子九人、唯だ君のみ在り。天未だ晉を絶たず、必ず将に主有らんとす。晉の祀を主る者、君に非ずして誰ぞ。天実に之を開く、二三子以て己の力と為す、亦た誣ならずや。人の財を竊むすら、猶ほ是れ盜と曰ふ、況んや天の功を貪りて以て己の力と為すをや。下は其の罪を冒し、上は其の姦を賞す、上下相蒙く、与に処り難し」と。

現代語訳

「自分の力ではなく、時運や周囲のおかげで得た成果を、自分の手柄として、貪ってはならない」——晋の忠臣・介子推が、恩賞に群がる同僚たちを、厳しく批判した一段です。晋の文公(重耳)が、十九年の亡命の末、ついに帰国して、君主の座に就きました。従っていた家臣たちは、その功を誇り、恩賞を求めます。しかし、介子推だけは、まったく違う見方をしていました。彼は、こう言います。「(先君)獻公には、九人の子があったが、(内乱で、次々に死に、)今、生き残っているのは、(我が君・重耳)ただ一人だ。天は、まだ、晋を、見捨てていない。だから、必ず、(晋を継ぐべき)主君が、(残されて)いたのだ。晋の祭祀を、主宰すべき者は、我が君を、おいて、誰がいようか。——つまり、(我が君が、君主となれたのは、)天が、実に、その道を、開いてくださったからなのだ(天實開之)。それなのに、あの者たち(同僚の家臣たち)は、それを、(あたかも、)自分の(働きの)力によるものだ、と、思い込んでいる。これは、(事実を)偽ることでは、ないか(不亦誣乎)」と。そして、痛烈な一言を、放ちます。「他人の財産を、盗めば、それは『盗み』と、呼ばれる。ましてや——天の功(=自分の力ではなく、時運や、天の巡り合わせによって、成ったこと)を、貪り取って、それを、自分の力(手柄)だと、するのは、(どれほど、恥ずべきことか)(貪天之功以為己力)」と。そして、こう結びました。「(そのように)下の者は、(自分の手柄でないものを、自分のものとする、)その罪を犯し、上の者は、(その、)よこしまな振る舞いを、(見抜けずに、)賞している。上下が、互いに、(真実を)覆い隠し合っている。(こんな者たちとは、)とても、一緒には、いられない」と。ここに、手柄と謙虚さについての教訓があります。第一に、自分が得た成果や成功が、はたして、本当に、自分の力によるものなのか、それとも、時運や、環境、周囲の人々のおかげなのかを、冷静に、見極めること。介子推は、文公の即位を、「天が開いた道」と見抜いていた。第二に、そして、自分の力ではないもの(時運・周囲のおかげ)を、あたかも、自分の手柄のように、貪り取ってはならないということ(貪天之功以為己力)。「他人の財を盗むのが泥棒なら、天の功を盗むのは、それ以上に恥ずべきことだ」——この、痛烈な比喩は、成功を、自分の実力だと、過信しがちな、あらゆる人への、鋭い戒めです。第三に、そうした、手柄の横取りが、上下ともに、当たり前になっている組織の、危うさ。組織や人生で、自分の成功が本当に自分の力によるものか時運や周囲のおかげかを冷静に見極めること、自分の力でないものを自分の手柄として貪らないこと、そして手柄の横取りが横行する組織の危うさを知ること——介子推の「貪天之功」の戒めは、成功に対する謙虚さの、根本を教えます。

解説

あなたは、自分が得た成果や成功が、本当に自分の力によるものなのか、それとも、時運や環境、周囲の人々のおかげなのかを、冷静に見極めていますか?自分の力ではないもの(時運・環境・他人の助け)を、あたかも自分の手柄のように貪り取っていないでしょうか——「他人の財を盗むのが泥棒なら、天の功を盗むのは、それ以上に恥ずべきこと」だと、考えられていますか?手柄の横取りが、上も下も当たり前になっているような組織の危うさに、気づけていますか?

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