史記 / 魯周公世家
其後武王既崩,成王少,在彊葆之中。周公恐天下聞武王崩而畔,周公乃踐阼代成王攝行政當國。管叔及其群弟流言於國曰:『周公將不利於成王。』周公乃告太公望、召公奭曰:『我之所以弗辟而攝行政者,恐天下畔周,無以告我先王太王、王季、文王。三王之憂勞天下久矣,於今而后成。武王蚤終,成王少,將以成周,我所以爲之若此。
新字:其後武王既崩,成王少,在彊葆之中。周公恐天下聞武王崩而畔,周公乃践阼代成王摂行政当国。管叔及其群弟流言於国曰:『周公将不利於成王。』周公乃告太公望、召公奭曰:『我之所以弗辟而摂行政者,恐天下畔周,無以告我先王太王、王季、文王。三王之憂労天下久矣,於今而后成。武王蚤終,成王少,将以成周,我所以為之若此。
書き下し
武王既に崩じ、成王少くして、彊葆の中に在り。周公天下の武王の崩ずるを聞きて畔かんことを恐れ、周公乃ち阼を踐み成王に代はりて摂して政を行ひ国に当たる。管叔及び其の群弟国に流言して曰く、「周公将に成王に利あらざらんとす」と。周公乃ち太公望・召公奭に告げて曰く、「我の辟けずして摂して政を行ふ所以の者は、天下の周に畔きて、以て我が先王に告ぐる無きを恐るればなり。武王蚤く終はり、成王少し、将に以て周を成さんとす、我の之が為に此くのごとくする所以なり」と。是に於て卒に成王を相く。
現代語訳
武王が崩御したとき、成王は幼く、まだ産着にくるまれていた。周公は、天下が武王の崩御を聞いて叛くことを恐れ、そこで自ら位に登り、成王に代わって摂政として政を執り、国に当たった。管叔とその弟たちは国中に流言を放って言った。「周公は成王のためにならぬことをしようとしている」。周公は太公望と召公奭に告げて言った。「私が身を退かずに摂政として政を執っているのは、天下が周に叛いて、それを我が先王に申し開きできなくなることを恐れているからだ。武王は早くに亡くなり、成王は幼い。これから周を完成させねばならぬ。私がこうしているのは、そのためだ」。こうして最後まで成王を補佐した。
解説
この章句が説くこと
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史記 魯周公世家是に於て卒に成王に相として、而して其の子伯禽をして代りて封に魯に就かしむ。
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史記 周本紀武王已に殷に克ち、後二年、箕子に殷の亡びし所以を問ふ。箕子殷の悪を言ふに忍びず、存亡の国の宜しきを以て告ぐ。武王も亦醜ぢ、故に問ふに天道を以てす。武王病む。天下未だ集まらず、群公懼れ、穆卜す。周公乃ち祓斎し、自ら質と為り、武王に代はらんと欲す。武王瘳ゆる有り。後にして崩じ、太子誦代はりて立つ。是を成王と為す。成王少く、周初めて天下を定む。周公諸侯の周に畔かんことを恐れ、公乃ち摂行して政し国に当たる。管叔・蔡叔の群弟周公を疑ひ、武庚と乱を作し、周に畔く。周公成王の命を奉じ、武庚・管叔を伐ちて誅し、蔡叔を放つ。微子開を以て殷の後に代へ、宋に国せしむ。頗る殷の余民を収め、以て武王の少弟封を封じて衛の康叔と為す。晋の唐叔嘉穀を得、之を成王に献ず。成王以て周公に兵所に帰る。周公禾を東土に受け、天子の命を魯ぶ。初め、管・蔡周に畔き、周公之を討ち、三年にして畢く定む。故に初めに大誥を作り、次に微子之命を作り、次に帰禾、次に嘉禾、次に康誥・酒誥・梓材を作る。其の事は周公の篇に在り。周公政を行ふこと七年、成王長じ、周公政を成王に反し、北面して群臣の位に就く。成王豊に在り、召公をして復た洛邑を営ましむ、武王の意の如し。周公復た卜して申ねて視、卒に営築し、九鼎を居く。曰く、「此れ天下の中にして、四方の入貢の道里均し」と。召誥・洛誥を作る。成王既に殷の遺民を遷し、周公王命を以て告げ、多士・無佚を作る。召公保と為り、周公師と為り、東のかた淮夷を伐ち、奄を残し、其の君を薄泵に遷す。成王奄より帰り、宗周に在りて、多方を作る。既に殷の命を絀け、淮夷を襲ひ、帰りて豊に在り、周官を作る。礼楽を興正し、度制是に於て改まり、而して民和睦し、頌声興る。成王既に東夷を伐ち、息慎来たりて賀す。王栄伯に賜ひて賄息慎之命を作らしむ。
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史記 魯周公世家武王疾有りて、豫ならず、群臣懼る。周公是に於て乃ち自ら以て質と為し、三壇を設け、周公北面して立ち、璧を戴き圭を秉り、太王・王季・文王に告ぐ。史策祝して曰く、「旦を以て王発の身に代へん。旦は巧能にして、多材多藝、能く鬼神に事ふ。乃ち王発は旦の多材多藝なるに如かず、能く鬼神に事へず」と。
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史記 魯周公世家周公卒して後、秋未だ穫らざるに、暴風雷雨ありて、禾斯に偃し、大木斯に抜く。周国大いに恐る。成王、大夫と朝服して以て金縢の書を開き、王乃ち周公の自ら以て功と為して武王に代らんとせしの説を得たり。二公及び王乃ち史・百執事に問ふ。史・百執事曰く、「信に有り。昔、周公我に命じて敢て言ふ勿からしむ」と。成王、書を執りて以て泣きて、曰く、「今より後、其れ繆卜する無からんか。昔、周公は王家に勤労す。惟れ予幼人、知るに及ばず。今、天、威を動かして以て周公の徳を彰す。惟れ朕小子其れ迎へん。我が国家の礼も亦之に宜し」と。王郊に出づ。天乃ち雨ふり、風を反し、禾尽く起く。
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史記 魯周公世家周公旦は、周の武王の弟なり。文王の在りし時より、旦は子と為りて孝、篤く仁にして、群子に異なる。武王即位するに及び、旦常に武王を輔翼し、事を用ふること多きに居る。武王の九年、東伐して盟津に至る。周公輔けて行く。十一年、紂を伐ちて牧野に至る。周公、武王を佐けて牧誓を作る。殷を破りて商の宮に入る。已に紂を殺し、周公は大鉞を把り、召公は小鉞を把りて、以て武王を夾み、社に釁りて、紂の罪を天及び殷の民に告ぐ。箕子の囚を釈く。紂の子武庚禄父を封じ、管叔・蔡叔をして之に傅たらしめ、以て殷の祀を続がしむ。遍く功臣・同姓・戚者を封ず。周公旦を少昊の虚曲阜に封ず。是れを魯公と為す。周公封に就かず、留まりて武王を佐く。武王殷に克ちて二年、天下未だ集まらず。武王疾有りて、豫ばず。群臣懼る。太公・召公乃ち繆卜す。周公曰く、「未だ以て我が先王を戚へしむ可からず」と。
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史記 魯周公世家其の高宗に在りては、久しく外に労し、小人と与に為る。其の即位するを作すや、乃ち亮闇有り、三年言はず。言へば乃ち讙ぶ。敢て荒寧せず、殷国を密靖し、小大に至るまで怨無し。故に高宗、国を饗くること五十五年。其の祖甲に在りては、王たるを不義とし、久しく外に小人為り、小人の依を知り、能く小民を保施し、寡を侮らず。故に祖甲、国を饗くること三十三年」と。多士に称して曰く、「湯より帝乙に至るまで、祀を率ひ徳を明らかにせざる無く、帝の天に配せざる者無し。今の後嗣の王紂に在りては、誕に厥の佚に淫し、天及び民の従ふ所を顧みず。其の民皆誅す可し」と。「文王は日中昃くまで食するに暇あらず、国を饗くること五十年」と。此を作りて以て成王を誡む。成王豊に在り、天下已に安し。周の官政未だ次序あらず。是に於て周公、周官を作り、官ごとに其の宜しきを別ち、立政を作りて、以て百姓を便にす。百姓説ぶ。周公豊に在りて、病みて将に没せんとして、曰く、「必ず我を成周に葬り、以て吾の敢て成王を離れざるを明らかにせよ」と。周公既に卒し、成王も亦譲り、周公を畢に葬り、文王に従はしめ、以て予小子の敢て周公を臣とせざるを明らかにす。
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