史記 / 呉太伯世家
吳太伯,太伯弟仲雍,皆周太王之子,而王季歷之兄也。季歷賢,而有聖子昌,太王欲立季歷以及昌,於是太伯、仲雍二人乃犇荊蠻,文身斷髮,示不可用,以避季歷。季歷果立,是爲王季,而昌爲文王。太伯之犇荊蠻,自號句吳。荊蠻義之,從而歸之千餘家,立爲吳太伯。
新字:呉太伯,太伯弟仲雍,皆周太王之子,而王季歴之兄也。季歴賢,而有聖子昌,太王欲立季歴以及昌,於是太伯、仲雍二人乃犇荊蠻,文身断髪,示不可用,以避季歴。季歴果立,是為王季,而昌為文王。太伯之犇荊蠻,自号句呉。荊蠻義之,従而帰之千余家,立為呉太伯。
書き下し
呉太伯、太伯の弟仲雍、皆周の太王の子にして、王季歷の兄なり。季歷賢にして、聖子昌有り、太王季歷を立てて以て昌に及ばんと欲す、是に於て太伯・仲雍二人乃ち荊蠻に奔り、身に文し髪を断ち、用ゐる可からざるを示し、以て季歷を避く。太伯の荊蠻に奔るや、自ら句呉と号す。荊蠻之を義とし、従ひて之に帰する者千餘家、立てて呉太伯と為す。
現代語訳
呉の太伯と、太伯の弟の仲雍は、どちらも周の太王の子で、王季歷の兄である。季歷は有能で、しかも聖なる子・昌がいた。太王は季歷を立てて、その位を昌に伝えたいと望んだ。そこで太伯と仲雍の二人は南方の荊蛮の地へ逃れ、体に入れ墨をし髪を切って、自分たちが用いられない身であることを示し、それによって季歷に道を譲った。太伯は荊蛮へ逃れると、自ら句呉と号した。荊蛮の人々はこれを義と認め、従って身を寄せる者が千余家に及んだ。人々は彼を立てて呉の太伯とした。
解説
「地位を潔く譲り、身を退いた者が、かえって、その徳ゆえに、新たな人々に慕われる」——呉の建国の祖・太伯の、無私の譲位を描いた一段です。太伯と、その弟の仲雍は、周の太王(古公亶父)の、長男と次男でした。当然、家督は、長男の太伯が継ぐべきところです。ところが、末弟の季歷が賢明で、しかも、その子・昌(後の文王)には、聖人となるべき資質が備わっていました。父の太王は、(周の未来のために、)末弟の季歷に継がせ、ゆくゆくは、その子・昌へと、家督を伝えたい、と望んでいたのです。この、父の内心の願いを察した、長男の太伯と、次男の仲雍は、驚くべき行動に出ます。二人は、(自分たちが継ぐべき家督を、弟に譲るため、)はるか南方の、荊蛮の地へと、自ら逃れ去りました。そして、そこで、身に入れ墨をし、髪を短く切り落として、「(このような、蛮夷の風習に染まった身では、もはや、)中原の君主として、用いることはできない」ことを、はっきりと、示したのです。後戻りの道を、自ら断ち切って、完全に、弟に譲りました。しかし——ここからが、この物語の、味わい深いところです。太伯が、この無私の譲りによって、荊蛮の地に移り住み、「句呉」と名乗ると、地元の荊蛮の人々は、この、地位を潔く譲った太伯の行いを、「義(立派なこと)だ」として、深く感銘を受けました(荊蠻義之)。そして、彼を慕って、従い、帰服する者が、なんと、千余家にも及んだのです。人々は、彼を推戴して、「呉太伯」として、(新たな国の)君主に、立てました。地位を捨てた者が、その徳ゆえに、まったく新しい土地で、新たな人々に慕われ、新たな国の祖と、なったのです。ここに、譲ることについての教訓があります。第一に、大局のために、自らの当然の権利や地位を、潔く譲る、その無私の徳。太伯は、長子の権利に固執せず、一族の未来のために、それを、後腐れなく、完全に、譲った。第二に、そして——地位を捨て、身を退いた者が、かえって、その徳ゆえに、まったく別の場所で、新たな人々の、心からの支持を得ることがあるということ(荊蠻義之、歸之千餘家)。失うことを恐れて、しがみつくより、潔く手放すことが、思いもよらぬ、新たな道を、開く。第三に、譲るときは、中途半端でなく、(入れ墨をして戻れなくしたように、)徹底して、後腐れなく、譲ること。組織や人生で、大局のために自らの権利や地位を潔く譲る無私を持つこと、潔く手放すことがかえって新たな支持と道を開くと知ること、そして譲るときは中途半端でなく徹底することを心がけること——太伯の譲国は、譲ることの気高さと、その思わぬ実りを教えます。
この章句が説くこと
呉太伯譲国無私の譲り文身断髪後腐れなく譲る地位を捨てた者が新たに慕われる
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史記 呉太伯世家太伯卒し、子無く、弟仲雍立つ。是れを呉の仲雍と為す。仲雍卒し、子季簡立つ。季簡卒し、子叔達立つ。叔達卒し、子周章立つ。是の時、周の武王殷に克ち、太伯・仲雍の後を求めて、周章を得たり。周章已に呉に君たり、因りて之を封ず。乃ち周章の弟虞仲を周の北の故の夏虚に封ず。是れを虞仲と為し、列して諸侯と為す。周章卒し、子熊遂立つ。熊遂卒し、子柯相立つ。柯相卒し、子彊鳩夷立つ。彊鳩夷卒し、子余橋疑吾立つ。余橋疑吾卒し、子柯盧立つ。柯盧卒し、子周繇立つ。周繇卒し、子屈羽立つ。屈羽卒し、子夷吾立つ。夷吾卒し、子禽処立つ。禽処卒し、子転立つ。転卒し、子頗高立つ。頗高卒し、子句卑立つ。是の時、晋の献公、周の北の虞公を滅し、以て晋の虢を伐つを開く。句卑卒し、子去斉立つ。去斉卒し、子寿夢立つ。寿夢立ちて呉始めて益々大となり、王と称す。太伯の呉を作りしより、五世にして武王殷に克ち、其の後を封じて二と為す。其の一は虞、中国に在り。其の一は呉、夷蛮に在り。十二世にして晋、中国の虞を滅す。中国の虞滅びて二世にして、夷蛮の呉興る。大凡太伯より寿夢に至るまで十九世。王寿夢の二年、楚の亡大夫申公巫臣、楚の将子反を怨みて晋に犇り、晋より呉に使し、呉に兵を用ひ車に乗ることを教へ、其の子をして呉の行人と為らしむ。呉是に於て始めて中国に通ず。呉、楚を伐つ。十六年、楚の共王、呉を伐ちて衡山に至る。二十五年、王寿夢卒す。
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