史記 / 斉太公世家
桓公十有餘子、其の後立つ者を要するに五人あり。桓公病むや、五公子各おの党を樹てて位を争ふ。桓公卒するに及び、遂に相攻む。宮中空しく、敢へて棺を殮むる莫く、桓公の尸床に在ること六十七日、尸虫戸を出づ。
新字:桓公十有余子、其の後立つ者を要するに五人あり。桓公病むや、五公子各おの党を樹てて位を争ふ。桓公卒するに及び、遂に相攻む。宮中空しく、敢へて棺を殮むる莫く、桓公の尸床に在ること六十七日、尸虫戸を出づ。
書き下し
桓公十有餘子、其の後立つ者を要するに五人あり。桓公病むや、五公子各おの党を樹てて位を争ふ。桓公卒するに及び、遂に相攻む。宮中空しく、敢へて棺を殮むる莫く、桓公の尸床に在ること六十七日、尸虫戸を出づ。
現代語訳
「後継の道筋を、生前に定めておかなければ、偉大な指導者の死後、組織は骨肉の争いで崩れる」——覇者・桓公の、あまりに悲惨な死後を描いた一段です。斉の桓公は、名臣・管仲の輔佐を得て、諸侯の覇者にまで上りつめた、まぎれもない、偉大な君主でした。しかし、その桓公にも、致命的な、怠りがありました。後継者を、明確に、定めておかなかったのです。桓公には、十人余りの息子がおり、そのうち、後継の座を狙う、有力な公子が、五人もいました。桓公が病に倒れると、この五人の公子たちは、それぞれ、徒党(派閥)を組んで、次の君主の座を、激しく争い始めます(各樹黨爭位)。そして、桓公が亡くなると、ついに、公子たちは、互いに、武力で攻め合う、骨肉の争いへと、突入したのです。その混乱は、凄惨を極めました。後継争いに、皆が夢中になったため、宮中は、(父・桓公の遺体を弔う者もなく、)もぬけの殻となり、あの、天下に覇を唱えた桓公の遺体は、寝台の上に、放置されたまま、なんと、六十七日間も、埋葬されず、ついには、遺体に湧いた蛆虫(うじむし)が、部屋の戸口から、這い出てくる、という、目を覆うばかりの、有様となったのです。偉大な覇者の、あまりに悲惨な、末路でした。ここに、後継についての教訓があります。第一に、どれほど偉大な指導者でも、後継の道筋を、生前に、明確に定め、備えておかなければ、その死後、組織は、後継争いという、骨肉の争いによって、崩れてしまうということ。桓公の覇業も、後継を定めなかったために、その死とともに、混乱に陥り、傾いた。第二に、後継が曖昧なままだと、有力な候補者たちが、それぞれ派閥を作って争い(各樹黨爭位)、組織を、真っ二つに、いや、五つに、引き裂くということ。後継の不備は、内部分裂の、最大の火種となる。第三に、偉大な指導者ほど、その存在が大きいだけに、後継の備えを怠れば、死後の反動と混乱も、大きくなるということ(桓公の遺体の放置)。組織や事業の承継で、偉大な指導者ほど後継の道筋を生前に明確に定めておくこと、後継が曖昧なままだと有力な候補者の派閥争いで組織が分裂すると知ること、そして後継の備えを怠れば死後の混乱が組織を傾けると自覚すること——桓公の悲惨な死後は、後継者を定めておくことの決定的な重要性を教えます。