史記 / 孝文本紀
南越王尉佗自立して武帝と為るも、上尉佗の兄弟を召し貴くし、徳を以て之に報ゆ、佗遂に帝を去りて臣と称す。匈奴と和親するも、匈奴約に背きて入盗す、然れども辺をして備守せしめ、兵を発して深く入らず、百姓を煩苦するを悪む。群臣袁盎等の説を称すること切なりと雖も、常に假借して之を用ゐる。群臣張武等賂遺の金銭を受くる、覚らるるも、上乃ち御府の金銭を発して之に賜ひ、以て其の心を愧ぢしめ、吏に下さず。専ら務めて徳を以て民を化す、是を以て海内殷富し、礼義に興る。
新字:南越王尉佗自立して武帝と為るも、上尉佗の兄弟を召し貴くし、徳を以て之に報ゆ、佗遂に帝を去りて臣と称す。匈奴と和親するも、匈奴約に背きて入盗す、然れども辺をして備守せしめ、兵を発して深く入らず、百姓を煩苦するを悪む。群臣袁盎等の説を称すること切なりと雖も、常に仮借して之を用ゐる。群臣張武等賂遺の金銭を受くる、覚らるるも、上乃ち御府の金銭を発して之に賜ひ、以て其の心を愧ぢしめ、吏に下さず。専ら務めて徳を以て民を化す、是を以て海内殷富し、礼義に興る。
書き下し
南越王尉佗自立して武帝と為るも、上尉佗の兄弟を召し貴くし、徳を以て之に報ゆ、佗遂に帝を去りて臣と称す。匈奴と和親するも、匈奴約に背きて入盗す、然れども辺をして備守せしめ、兵を発して深く入らず、百姓を煩苦するを悪む。群臣袁盎等の説を称すること切なりと雖も、常に假借して之を用ゐる。群臣張武等賂遺の金銭を受くる、覚らるるも、上乃ち御府の金銭を発して之に賜ひ、以て其の心を愧ぢしめ、吏に下さず。専ら務めて徳を以て民を化す、是を以て海内殷富し、礼義に興る。
現代語訳
「力ずくや厳罰ではなく、徳と寛容によって、人を感化し、心から従わせる」——文帝の、徳による統治の具体例を、いくつも重ねた一段です。文帝の統治の真骨頂は、「徳をもって人を感化する」点にありました。この一段は、その具体例を、次々と挙げています。第一に、外交での寛容。南越の尉佗(趙佗)が、(無礼にも)勝手に「武帝」を名乗って対抗したときも、文帝は、武力で懲らしめるのではなく、尉佗の(故郷にいる)兄弟を、都で厚く待遇し、徳をもって報いました(以德報之)。すると尉佗は、恐れ入って、自ら帝号を捨て、臣下を称したのです。第二に、民を煩わせない配慮。匈奴が、和親の約束を破って侵入してきても、文帝は、国境の守りを固めるにとどめ、(報復のために)軍を深く進めることはしませんでした。「(無用な戦で)民を、苦しめ煩わせたくない(惡煩苦百姓)」からです。第三に、諫言への寛容。家臣の袁盎らが、(時に)痛烈な諫言をしても、文帝は、常に、それを許し、(怒らず)用いました(假借用之)。第四に、過ちへの寛大さ。家臣の張武らが、賄賂を受け取ったことが発覚したときも、文帝は、(罰する代わりに)逆に、宮中の金を、彼らに下賜して、その良心を恥じ入らせ(以愧其心)、役人に引き渡して罰することはしませんでした。このように、文帝は、「ひたすら、徳によって、民を感化することに努めた(專務以德化民)」。その結果、「天下は豊かになり、礼儀の道が、栄えた(海內殷富、興於禮義)」のです。ここに、徳による統治についての教訓があります。第一に、人を、力ずくや、厳罰で従わせるのではなく、徳と寛容によって、心から感化し、従わせること(以德報之、以德化民)。文帝は、無礼な相手にも、諫言する者にも、過ちを犯した者にさえ、寛容と徳で応じ、それによって、かえって深い信頼と服従を得た。第二に、(報復や、面子のために)人々を、無用に苦しめないこと(惡煩苦百姓)。第三に、過ちを犯した者を、ただ罰するのではなく、その良心に訴えて、恥じ入らせ、自ら改めさせる、という高度な導き方(以愧其心)。組織や経営で、力や厳罰でなく徳と寛容で人を心から感化すること、報復や面子のために人々を無用に苦しめないこと、そして過ちを犯した者の良心に訴えて自ら改めさせること——文帝の徳治は、人を心から従わせる統治の力を教えます。