史記 / 高祖本紀
秦王子嬰素車白馬,系頸以組,封皇帝璽符節,降軹道旁。諸將或言誅秦王。沛公曰:「始懷王遣我,固以能寬容;且人已服降,又殺之,不祥。」乃以秦王屬吏,遂西入咸陽。
新字:秦王子嬰素車白馬,系頸以組,封皇帝璽符節,降軹道旁。諸将或言誅秦王。沛公曰:「始懐王遣我,固以能寛容;且人已服降,又殺之,不祥。」乃以秦王属吏,遂西入咸陽。
書き下し
秦王子嬰素車白馬、頸を組に系ぎ、皇帝の璽符節を封じ、軹道の旁に降る。諸将或いは秦王を誅せんと言ふ。沛公曰く、「始め懐王我を遣るは、固より能く寛容なるを以てなり。且つ人已に服降す、又之を殺すは、不祥なり」と。乃ち秦王を吏に属す。
現代語訳
秦王・子嬰は、飾りのない車に白馬を引かせ、首に組紐を巻きつけ、皇帝の印璽と符節を封じて、軹道のほとりで降伏した。諸将の中には、秦王を殺せと言う者もいた。沛公は言った。「そもそも懐王が私を遣わされたのは、私が寛容だからだ。それに、この者はすでに降伏している。それを殺すのは不吉だ」。そして秦王を役人に引き渡した。
解説
「降伏し、身を委ねてきた相手を、むやみに殺さない」——劉邦(沛公)が、降伏した秦王を許した一段です。劉邦が、諸侯に先んじて秦の都・咸陽に迫ったとき、秦王・子嬰は、抵抗する力もなく、降伏の意を示しました。喪服を思わせる白い車と馬に乗り、自らの首に、(降伏の印である)組紐をかけ、皇帝の証である璽(印章)を封じて捧げ、道のかたわらで、劉邦に降伏したのです。このとき、劉邦の配下の将軍の中には、「(憎き秦の王だ)殺してしまいましょう」と進言する者もいました。しかし、劉邦は、これを退けて、こう言います。「そもそも、(我が主君の)懐王が、(諸侯の中から)私を選んで、(西へ攻め入る大役に)派遣してくださったのは、私が、寛容な人間だからだ。それに、相手は、すでに、降伏して、身を委ねてきている。それを、(今さら)殺すのは、不吉なことだ(人已服降、又殺之、不祥)」と。そして、秦王を殺さず、役人に預けて、その身を保護したのです。このような寛容な態度が、後に、秦の人々の心を、劉邦へと向かわせる、大きな要因となりました。ここに、寛容についての教訓があります。第一に、いったん降伏し、抵抗をやめて、身を委ねてきた相手を、むやみに殺したり、痛めつけたりしないこと(人已服降、又殺之、不祥)。すでに屈服した相手に、なお追い打ちをかけるのは、寛容を欠くだけでなく、周囲に「あの者は、降っても許されない」という恐怖と反感を植えつける。第二に、勝者の度量とは、力で相手を打ち負かすことだけでなく、屈した相手を、寛大に処遇できることにあるということ。劉邦は、憎き敵の王でさえ、降伏した以上は許した。その度量が、人々の信頼を集めた。第三に、目先の恨みを晴らすこと(秦王を殺す)よりも、大局(人心を得ること)を優先する判断。組織や競争、人間関係で、屈服し身を委ねた相手をむやみに痛めつけないこと、勝者の度量とは屈した相手を寛大に処遇できることだと知ること、そして目先の恨みより大局の人心を優先すること——劉邦が秦王を許した逸話は、勝者の寛容の大切さを教えます。
この章句が説くこと
漢高祖劉邦秦王子嬰を許す降伏した相手を殺さない人已服降又殺之不祥勝者の寛容屈した相手への度量
関連する章句
-
史記 高祖本紀初め、項羽宋義と北のかた趙を救ふ、項羽の宋義を殺し、代はりて上将軍と為るに及び、諸将黥布皆属し、秦の将王離の軍を破り、章邯を降し、諸侯皆附く。趙高已に二世を殺すに及び、人をして来らしめ、約して関中に分王せんと欲す。沛公以て詐りと為し、乃ち張良の計を用ゐ、酈生・陸賈をして往きて秦の将に説き、啗はすに利を以てせしめ、因りて武関を襲攻し、之を破る。又秦の軍と藍田の南に戦ひ、益々疑兵の旗幟を張り、諸々の過ぐる所掠鹵するを得る毋からしむ、秦人喜び、秦の軍解く、因りて大いに之を破る。又其の北に戦ひ、大いに之を破る。勝ちに乗じて、遂に之を破る。漢の元年十月、沛公の兵遂に諸侯に先んじて霸上に至る。
-
史記 高祖本紀且つ吾の軍を霸上に還す所以は、諸侯の至るを待ちて約束を定めんのみ。」と。乃ち人をして秦の吏と県郷邑を行かしめ、之に告諭す。秦人大いに喜び、争ひて牛羊酒食を持ちて軍士に献饗す。沛公又譲りて受けず、曰く、「倉粟多し、乏しきに非ず、人に費さしむるを欲せず。」と。人又益々喜び、唯だ沛公の秦王と為らざらんことを恐る。
-
史記 項羽本紀沛公張良に謂ひて曰く、「此の道より吾が軍に至るは、二十里に過ぎざるのみ。我軍中に至るを度りて、公乃ち入れ。」と。沛公已に去り、間(ひそ)かに軍中に至る、張良入りて謝して、曰く、「沛公桮杓に勝へず、辞する能はず。謹みて臣良をして白璧一双を奉じ、再拝して大王の足下に献じ、玉斗一双もて、再拝して大将軍の足下に奉ぜしむ。」と。項王曰く、「沛公安くに在る。」と。良曰く、「大王之を督過するに意有りと聞き、身を脱して独り去り、已に軍に至れり。」と。項王則ち璧を受け、之を坐上に置く。亜父玉斗を受け、之を地に置き、剣を抜きて撞きて之を破りて、曰く、「唉(ああ)、豎子与に謀るに足らず。項王の天下を奪ふ者は、必ず沛公ならん、吾が属今に之が虜と為らん。」と。沛公軍に至り、立ちどころに曹無傷を誅殺す。居ること数日、項羽兵を引きて西のかた咸陽を屠り、秦の降王子嬰を殺し、秦の宮室を焼く、火三月滅せず。其の貨宝婦女を収めて東す。人或いは項王に説きて曰く、「関中は山河を阻てて四塞、地肥饒なり、都して以て霸たるべし。」と。項王秦の宮皆以に焼けて残破せるを見、又心に懐ひて東帰せんことを思欲し、曰く、「富貴にして故郷に帰らざるは、繡を衣て夜行くが如し、誰か之を知る者ぞ。」と。説く者曰く、「人言ふ楚人は沐猴にして冠するのみと、果たして然り。」と。項王之を聞き、説く者を烹る。項王人をして命を懐王に致さしむ。懐王曰く、「約の如くせよ。」と。乃ち懐王を尊びて義帝と為す。項王自ら王たらんと欲し、先づ諸将相を王とす。謂ひて曰く、「天下初めて難を発せし時、仮に諸侯の後を立てて以て秦を伐つ。然れども身堅を被り鋭を執りて事を首め、野に暴露すること三年、秦を滅ぼし天下を定むる者は、皆将相諸君と籍との力なり。義帝は功無しと雖も、故より当に其の地を分かちて之を王とすべし。」と。諸将皆曰く、「善し。」と。乃ち天下を分かち、諸将を立てて侯王と為す。
-
史記 秦始皇本紀二世曰く、「丞相見るを得可きや否や」と。楽曰く、「不可なり」と。二世曰く、「吾願はくは一郡を得て王と為らん」と。許さず。又曰く、「願はくは万戸侯と為らん」と。許さず。曰く、「願はくは妻子と黔首と為り、諸公子に比せん」と。閻楽曰く、「臣命を丞相に受け、天下の為に足下を誅す。足下多言すと雖も、臣敢へて報ぜず」と。其の兵を麾きて進む。二世自殺す。閻楽帰りて趙高に報ず。趙高乃ち悉く諸大臣公子を召し、告ぐるに二世を誅せし状を以てす。曰く、「秦は故王国なり。始皇天下に君たり、故に帝と称す。今六国復た自ら立ち、秦の地益小なり。乃ち空名を以て帝と為すは、不可なり。宜しく王と為ること故の如くすべし、便なり」と。二世の兄の子公子嬰を立てて秦王と為す。黔首を以て二世を杜南の宜春苑中に葬る。子嬰をして斎し、当に廟見して、王璽を受けしめんとす。斎すること五日、子嬰其の子二人と謀りて曰く、「丞相高二世を望夷宮に殺し、群臣の之を誅せんことを恐れ、乃ち詳りて義を以て我を立つ。我聞く、趙高乃ち楚と約し、秦の宗室を滅ぼして関中に王たらんとすと。今我をして斎して廟に見えしむるは、此れ廟中に因りて我を殺さんと欲するなり。我病と称して行かずんば、丞相必ず自ら来たらん。来たらば則ち之を殺さん」と。高人をして子嬰を請はしむること数輩、子嬰行かず。高果たして自ら往きて、曰く、「宗廟は重事なり、王柰何ぞ行かざる」と。子嬰遂に高を斎宮に刺殺し、高の家を三族して以て咸陽に徇ふ。子嬰秦王為ること四十六日、楚の将沛公秦の軍を破りて武関に入り、遂に霸上に至り、人をして子嬰に降を約せしむ。子嬰即ち頸に系くるに組を以てし、白馬素車にて、天子の璽符を奉じて、軹道の旁らに降る。沛公遂に咸陽に入り、宮室府庫を封じ、還りて霸上に軍す。居ること月余にして、諸侯の兵至る。項籍従長と為り、子嬰及び秦の諸公子・宗族を殺す。遂に咸陽を屠り、其の宮室を焼き、其の子女を虜にし、其の珍宝貨財を収め、諸侯共に之を分かつ。
-
『長短経』覇図武関を攻め、大いに秦軍を破る。〈趙高、二世を殺し、子嬰を立て、兵を遣わして関を拒がしむ。張良曰く「秦兵尚お強し。未だ軽んず可からず。願わくは益々旗幟を諸山の上に張りて、疑兵を為し、酈食其をして重宝を持して秦将を啗わしめよ」と。秦将、果たして連和して倶に西せんと欲す。沛公、之を聴かんと欲す。良曰く「此れ独り其の将のみ叛かんと欲す。恐らくは士卒従わざらん。士卒従わずんば、必ず危うし。其の懈るに因りて之を撃つに如かず」と。乃ち秦軍を撃ちて、之を破る。〉咸陽に入り、秦人と法三章を約す。〈秦人、牛・酒を献ず。沛公、譲りて受けず。是に於て人、徳を知るなり。〉兵を遣わして関を拒ぎ、関中に王たらんと欲す。是の時、項羽、秦軍を河北に破り、諸侯の兵四十万を率いて鴻門に至り、沛公を撃たんと欲す。沛公、項伯に因りて羽に自解す。
-
史記 高祖本紀沛公をして西のかた地を略して関に入らしむ。諸将と約す、先づ入りて関中を定むる者は之を王とせんと。是の時に当たりて、秦の兵彊く、常に勝ちに乗じて北ぐるを逐ふ、諸将先づ関に入るを利とする莫し。独り項羽秦の項梁の軍を破りしを怨み、奮ひて、沛公と西のかた関に入らんことを願ふ。懐王の諸老将皆曰く、「項羽の人と為り彊悍猾賊なり。項羽嘗て襄城を攻め、襄城に遺類無く、皆之を阬にす、諸々の過ぐる所残滅せざる無し。且つ楚数(しばしば)進み取らんとし、前の陳王・項梁皆敗る。更に長者を遣はして義に扶りて西し、秦の父兄に告諭するに如かず。秦の父兄其の主に苦しむこと久し、今誠に長者を得て往き、侵暴する毋くんば、宜しく下すべし。今項羽は彊悍なり、今遣はすべからず。独り沛公素より寛大の長者なり、遣はすべし。」と。卒に項羽を許さずして、沛公を遣はして西のかた地を略し、陳王・項梁の散卒を収めしむ。乃ち碭に道して成陽に至り、杠里の秦の軍と壁を夾み、(魏)[秦]の二軍を破る。楚の軍兵を出して王離を撃ち、大いに之を破る。沛公兵を引きて西し、彭越に昌邑に遇ひ、因りて与に倶に秦の軍を攻む、戦ひて利あらず。還りて栗に至り、剛武侯に遇ひ、其の軍を奪ふ、四千余人可り、之を并す。魏の将皇欣・魏の申徒武蒲の軍と并せて昌邑を攻む、昌邑未だ抜けず。西のかた高陽を過ぐ。酈食其監門為り、曰く、「諸将の此を過ぐる者多し、吾沛公を視るに大人長者なり。」と。乃ち見えんことを求めて沛公に説く。沛公方に牀に踞し、両女子をして足を洗はしむ。酈生拝せず、長揖して、曰く、「足下必ず無道の秦を誅せんと欲せば、宜しく踞して長者に見ゆべからず。」と。是に於て沛公起ち、衣を摂めて之に謝し、延きて上坐せしむ。食其沛公に説きて陳留を襲はしめ、秦の積粟を得たり。乃ち酈食其を以て広野君と為し、酈商を将と為し、陳留の兵に将たらしめ、与に偕に開封を攻む、開封未だ抜けず。西のかた秦の将楊熊と白馬に戦ひ、又曲遇の東に戦ひ、大いに之を破る。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る