史記 / 夏本紀
十年、帝禹東のかた巡狩し、会稽に至りて崩ず。天下を以て益に授く。三年の喪畢はり、益帝禹の子啟に譲りて、辟けて箕山の陽に居る。禹の子啟賢にして、天下意を属す。禹崩ずるに及び、益の禹を佐くること日浅く、天下未だ洽からず。故に諸侯皆益を去りて啟に朝し、曰く、吾が君は帝禹の子なりと。是に於て啟遂に天子の位に即く。
書き下し
十年、帝禹東のかた巡狩し、会稽に至りて崩ず。天下を以て益に授く。三年の喪畢はり、益帝禹の子啟に譲りて、辟けて箕山の陽に居る。禹の子啟賢にして、天下意を属す。禹崩ずるに及び、益の禹を佐くること日浅く、天下未だ洽からず。故に諸侯皆益を去りて啟に朝し、曰く、「吾が君は帝禹の子なり」と。是に於て啟遂に天子の位に即く。
現代語訳
「人々の支持は、地位の指名だけでは動かず、日頃の実績と信頼の蓄積によって決まる」——禹の後継をめぐる、支持の行方を描いた一段です。禹は、堯・舜の禅譲(せんじょう=血縁でなく有徳者に位を譲る)の伝統にならい、自分の後継者として、臣下の益(えき)を指名し、天下を授けました。禹が亡くなり、三年の喪が明けると、益は、(謙譲して)禹の実の息子である啟(けい)に位を譲り、自らは身を引いて、箕山の南に隠棲しました。ここまでは、禅譲の形が踏まれています。しかし、実際に人々の支持が向かったのは、指名された益ではなく、禹の息子・啟のほうでした。なぜか。史記は、その理由を、明快に分析します。第一に、「禹の子・啟は賢明で、天下の人々の心が、(もともと)啟に寄せられていた(禹子啟賢、天下屬意焉)」。啟自身に、人々を惹きつける実力と人望があったのです。第二に、「益が禹を補佐していた期間は、日が浅く、その恩沢が、まだ天下に十分に行き渡っていなかった(益之佐禹日淺、天下未洽)」。益は、後継に指名されはしたものの、人々の信頼を得るだけの実績を、まだ積んでいなかったのです。その結果、「諸侯は皆、益のもとを去って、啟のもとに参内し、『我々の君主は、(人望ある)帝禹の子(啟)だ』と言った」。こうして、啟が天子の位に即き、(禅譲の時代が終わり)世襲の王朝が始まったのです。ここに、支持と信頼についての教訓があります。第一に、人々の支持は、地位の指名や、形式的な後継の宣言だけでは、動かないということ。益は正式に後継指名されたのに、支持は集まらなかった。肩書きや形式だけでは、人はついてこない。第二に、支持は、日頃の実績と、信頼の蓄積によって決まるということ(益之佐禹日淺、天下未洽)。益は、実績を積む時間が足りなかった。人々の信頼は、一朝一夕には得られず、地道な貢献の積み重ねによって、はじめて厚くなる。第三に、そして、その人自身に、人を惹きつける実力と人望があるかどうかが、最終的に支持の行方を決めるということ(啟賢、天下屬意)。組織や人事で、地位の指名や肩書きだけでは人の支持は動かないと知ること、支持は日頃の実績と信頼の蓄積によって決まると理解すること、そしてその人自身の実力と人望こそが最終的に支持を集めると自覚すること——禹の後継の逸話は、真の支持がどこから生まれるかを教えます。