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史記 / 亀策列伝

故に云ふ、神は至りて能く元王に夢に見ゆるも、而れども自ら漁者の籠を出づる能はず。賢は能く人をして戦勝攻取せしむるも、自ら刀鋒に解くる能はず。明にも見えざる所有り、聴くにも聞こえざる所有り。人賢なりと雖も、左に方を画き、右に円を画く能はず。日月の明なるも、時に浮雲に蔽はる。羿善射を名とするも、雄渠・蜂門に如かず。禹弁智を名と為すも、鬼神に勝つ能はず。又柰何ぞ人に全きを責めんや。

書き下し

故に云ふ、神は至りて能く元王に夢に見ゆるも、而れども自ら漁者の籠を出づる能はず。賢は能く人をして戦勝攻取せしむるも、自ら刀鋒に解くる能はず。明にも見えざる所有り、聴くにも聞こえざる所有り。人賢なりと雖も、左に方を画き、右に円を画く能はず。日月の明なるも、時に浮雲に蔽はる。羿善射を名とするも、雄渠・蜂門に如かず。禹弁智を名と為すも、鬼神に勝つ能はず。又柰何ぞ人に全きを責めんや。

現代語訳

「どんなに優れた者にも、必ず及ばぬところ、見えぬところがある」——神秘の亀の限界になぞらえて、能力の限界を説いた一段です。神秘的な力を持つという亀(神龜)は、王の夢に現れて未来を告げるほどの霊力を持ちながら、皮肉なことに、自分自身は、一介の漁師の籠から抜け出すことができませんでした(神至能見夢於元王、而不能自出漁者之籠)。この逸話をもとに、司馬遷は、能力の限界について、深い洞察を連ねます。「優れた知恵は、他人を戦に勝たせ、城を攻め取らせることはできても、(いざとなれば)自分自身を、刃の危険から救うことはできない(賢能令人戰勝攻取、不能自解於刀鋒)。目の明るい者にも、見えないところがあり、耳の聡い者にも、聞こえないところがある(明有所不見、聽有所不聞)。人は、どんなに賢くても、左手で四角を、右手で同時に円を描くことはできない。日や月は、あれほど明るくても、時には浮雲に覆い隠される(日月之明、而時蔽於浮雲)。(弓の名手の)羿でさえ、(他の名手)雄渠や蜂門には及ばない。(聖王の)禹でさえ、その知恵をもってしても、鬼神に勝つことはできなかった」と。そして、こう結びます。「(このように、天地万物ですら完全ではないのに)どうして、人に対してだけ、完全であることを求められようか(又柰何責人於全)」と。ここに、能力の限界についての教訓があります。第一に、どんなに優れた者にも、必ず、及ばぬところ、見えぬところ、できぬところがあるということ(明有所不見、聽有所不聞)。神龜でさえ自分を救えなかったように、万能の存在はない。誰もが、何かに長け、何かに劣る。第二に、他人のことにはよく気づき、優れた助言ができる者でも、こと自分自身のことになると、かえって見えなくなる(自ら籠を出づる能はず)ということ。人は、自分の盲点には、なかなか気づけない。だからこそ、他者の目や助言が要る。第三に、そして最も大切なのは、他人にも自分にも、「完全」を求めすぎないこと(柰何責人於全)。誰もが不完全なのだから、一つの欠点や失敗をあげつらって、その人を全否定するのは、道理に合わない。組織や人間関係で、どんなに優れた人にも及ばぬところがあると知ること、人は自分の盲点に気づきにくいからこそ他者の目を借りること、そして他人にも自分にも完全を求めすぎないこと——神龜の限界の逸話は、能力の限界を弁える謙虚さを教えます。

解説

あなたは、どんなに優れた人にも、必ず、及ばぬところ・見えぬところ・できぬところがあることを、受け入れられていますか?他人のことにはよく気づけても、こと自分自身のことになると盲点が生じることを自覚し、他者の目や助言を借りられていますか?他人に対しても、自分自身に対しても、「完全」を求めすぎて、一つの欠点や失敗で全否定するような、無理な期待をしていませんか?

この一句を、あなたの毎日に。

古典の教えを、今の状況に当てはめて考えてみる——師導があなたの学びと選択を支えます。

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