史記 / 佞幸列伝
與上臥起,甚貴幸,埒如韓嫣也。久之,寖與中人亂,出入驕恣。及其女弟李夫人卒後,愛弛,則禽誅延年昆弟也。 自是之後,內寵嬖臣大底外戚之家,然不足數也。衞青、霍去病亦以外戚貴幸,然頗用材能自進。
新字:与上臥起,甚貴幸,埒如韓嫣也。久之,寖与中人乱,出入驕恣。及其女弟李夫人卒後,愛弛,則禽誅延年昆弟也。 自是之後,内寵嬖臣大底外戚之家,然不足数也。衛青、霍去病亦以外戚貴幸,然頗用材能自進。
書き下し
李延年、上と臥起し、甚だ貴幸せられ、埒として韓嫣のごとし。久しくして、寖く中人と乱れ、出入驕恣なり。其の女弟李夫人卒するの後に及び、愛弛めば、則ち延年の昆弟を禽誅せり。自是の後、内寵の嬖臣大底外戚の家なり、然れども数ふるに足らず。衛青・霍去病も亦た外戚を以て貴幸せらる、然れども頗る材能を用ゐて自ら進む。
現代語訳
李延年は帝と寝起きを共にし、たいそう寵愛されて、その待遇は韓嫣に並ぶほどであった。長く続くうちに、しだいに宮中の女たちと乱れた関係を持ち、出入りも驕り高ぶるようになった。妹の李夫人が死んだのち、寵愛が薄れると、延年の兄弟は捕らえられて誅殺された。これ以後、宮中で寵愛された臣は、おおむね外戚の家の者であったが、取り立てて数え上げるほどのことはない。衛青と霍去病もまた外戚として寵愛されたが、彼らはかなり才能によって自ら道を切り開いた。
解説
「寵愛だけで得た地位は寵愛とともに消えるが、実力で進んだ者は違う」——寵臣の儚さと、実力ある者との対比を描いた一段です。李延年は、音楽の才で武帝に寵愛され、(妹の李夫人が寵姫であったこともあって)皇帝と寝起きを共にするほど、絶大な寵幸を受けました。その勢いは、当時の寵臣・韓嫣に匹敵するほどでした。しかし、寵愛を笠に着るうちに、彼は次第に増長し、宮中で不品行を働き、その出入りの振る舞いも、驕り高ぶって、ほしいままになっていきました(出入驕恣)。そして、彼を支えていた寵愛の源——妹の李夫人が亡くなると、皇帝の寵愛も緩み、たちまち李延年は、その兄弟もろとも捕らえられ、誅殺されてしまったのです。寵愛が去れば、破滅もまた早い。司馬遷は、こうした寵臣たちを描いた後、続けて記します。「これ以後、(皇帝の)内々の寵臣は、たいてい外戚(皇后や寵姫の一族)の家柄の者だった。しかし、(彼らは寵愛だけで取り立てられた者ばかりで)取り立てて数えるほどの者ではない」と。ところが、その中で、二人だけは別格でした。「衛青と霍去病も、(皇后の縁という)外戚として寵幸を受けはした。しかし彼らは、(寵愛だけに頼らず)その多くを、自らの実力によって切り開いて進んだのだ(頗用材能自進)」と。同じ外戚の出でも、寵愛だけで浮かんだ者はやがて沈み、実力で自ら道を切り開いた衛青・霍去病は、真の功臣として名を残した——その明暗を、司馬遷は対比しています。ここに、寵愛と実力についての教訓があります。第一に、寵愛だけで得た地位は、その寵愛の源が失われれば、たちまち消え去るということ。李延年は、妹という寵愛の源を失った途端、破滅した。他人の寵愛や引き立てに依存した地位は、その源とともに運命を共にする。第二に、寵愛を笠に着て増長・驕慢に振る舞うこと(出入驕恣)が、破滅を早めるということ。恵まれた立場を、慎むどころか、ほしいままにすれば、失脚のときの反動も大きい。第三に、同じ恵まれた立場(外戚)にあっても、それに安住せず、自らの実力で道を切り開いた者(衛青・霍去病)だけが、真に評価され、名を残すということ(用材能自進)。組織や人生で、他人の寵愛や引き立てだけに依存した地位の儚さを知ること、恵まれた立場で増長・驕慢に振る舞わないこと、そして恵まれた立場に安住せず自らの実力で道を切り開くこと——李延年と衛青らの対比は、寵愛と実力の明暗を教えます。
この章句が説くこと
李延年寵愛とともに消える地位出入驕恣増長が破滅を早める衛青霍去病用材能自進
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