史記 / 游侠列伝
雒陽人有相仇者,邑中賢豪居間者以十數,終不聽。客乃見郭解。解夜見仇家,仇家曲聽解。解乃謂仇家曰:「吾聞雒陽諸公在此間,多不聽者。今子幸而聽解,解奈何乃從他縣奪人邑中賢大夫權乎!」乃夜去,不使人知,曰:「且無用,待我去,令雒陽豪居其間,
新字:雒陽人有相仇者,邑中賢豪居間者以十数,終不聴。客乃見郭解。解夜見仇家,仇家曲聴解。解乃謂仇家曰:「吾聞雒陽諸公在此間,多不聴者。今子幸而聴解,解奈何乃従他県奪人邑中賢大夫権乎!」乃夜去,不使人知,曰:「且無用,待我去,令雒陽豪居其間,
書き下し
雒陽の人に相仇する者有り。邑中の賢豪、間に居る者十を以て数ふれども、終に聴かず。客乃ち郭解に見ゆ。解、夜仇家に見ゆ。仇家曲げて解に聴く。解乃ち仇家に謂ひて曰く、「吾聞く、雒陽の諸公此の間に在るも、多く聴かざる者なりと。今、子幸ひにして解に聴く。解奈何ぞ乃ち他県より人の邑中の賢大夫の権を奪はんや」と。乃ち夜去り、人をして知らしめず。曰く、「且く用ふる無かれ。我の去るを待ち、雒陽の豪をして其の間に居らしめ、
現代語訳
雒陽(洛陽)に互いに仇として憎み合う者がいた。町の有力者で仲裁に入った者は十人を数えたが、とうとう聞き入れなかった。そこである客が郭解に会って頼んだ。郭解は夜に仇同士の家を訪ねた。仇同士は気持ちを曲げて郭解の言うことを聞き入れた。すると郭解は仇同士に言った。「聞けば、雒陽の方々がこの間に入ったのに、多くは聞き入れなかったそうだ。いまあなたがたは幸いにも私の言うことを聞いてくれた。しかし私が、よその県から来て、この町の立派な方々の権威を奪うようなことをしてよいものだろうか」。そして夜のうちに立ち去り、人に知られないようにした。そして言った。「ひとまず私の仲裁はなかったことにしてほしい。私が去るのを待って、雒陽の有力者に間に入ってもらい、(その人の言うことを聞いたことにしてほしい)
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』哀公十一年 孟之側、馬進まず請ふ三刻して之を踰えん」と。之の如くす。眾之に從ふ。師齊の軍に入る。右師奔る。齊人之を從ふ。陳瓘・陳莊、泗を涉る。孟之側後れて入り、以て殿と為る。矢を抽きて其の馬に策(むちう)ちて曰く、「馬進まざるなり」と。林不狃の伍曰く、「走らんか」と。不狃曰く、「誰か如かざる」と。曰く、「然らば則ち止まらんか」と。不狃曰く、「惡(いづく)んぞ賢ならん」と。徐ろに步みて死す。師甲首八十を獲たり。齊人師を能くせず。宵に諜して曰く、「齊人遁る」と。冉有之を從はんことを請ふこと三たび、季孫許さず。孟孺子人に語りて曰く、「我は顏羽に如かず、而れども邴洩より賢る。子羽は銳敏なり。我は戰ふを欲せずして能く默す。洩は曰く、『之を驅れ』と」。公為其の嬖僮汪錡と乘り、皆死す。皆殯す。孔子曰く、「能く干戈を執りて以て社稷を衛る。殤とすること無かる可し」と。冉有矛を齊の師に用ゐる、故に能く其の軍に入る。孔子曰く、「義なり」と。
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『春秋左氏伝』荘公二十二年 敬仲、高位を辞す二十二年春、陳人其の大子禦寇を殺す。陳の公子完と顓孫と齊に奔る。顓孫齊より來奔す。齊侯敬仲をして卿と爲らしめんとす。辭して曰く、「羈旅の臣、幸ひに若し宥さるるを獲て、寬政に及び、其の教訓に閑はざるを赦して罪戾を免れ、負擔を弛めらるるは、君の惠なり。獲る所多し。敢へて髙位を辱めて、以って官謗を速かんや。請ふ死を以って告げん。《詩》に云ふ、『翹翹たる車乘、我を招くに弓を以ってす。豈に往かんことを欲せざらんや、我が友朋を畏る』と」と。工正と爲らしむ。桓公に酒を飲ましめて、樂しむ。公曰く、「火を以って之を繼げ」と。辭して曰く、「臣其の晝を卜して、未だ其の夜を卜せず。敢へてせず」と。君子曰く、「酒は以って禮を成し、繼ぐに淫を以ってせざるは、義なり。君を以って禮を成し、淫に納れざるは、仁なり」と。
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史記 陳杞世家此に在らずして、其れ異国に在らんか。此の其の身に非ずして、其の子孫に在らん。若し異国に在らば、必ず姜姓ならん。姜姓は太嶽の後なり。物は能く両ながら大なること莫し。陳衰へなば、此れ其れ昌えんか」と。厲公蔡の女を取る。蔡の女蔡人と乱す。厲公数々蔡に如きて淫す。七年、厲公の殺す所の桓公の太子免の三弟、長を躍と曰ひ、中を林と曰ひ、少を杵臼と曰ふ。共に蔡人をして厲公を誘ふに好女を以てせしめ、蔡人と共に厲公を殺して躍を立つ。是を利公と為す。利公は、桓公の子なり。利公立ちて五月にして卒し、中弟の林を立つ。是を荘公と為す。荘公七年にして卒し、少弟の杵臼立つ。是を宣公と為す。宣公の三年、楚の武王卒し、楚始めて彊し。十七年、周の恵王陳の女を娶りて后と為す。二十一年、宣公後に嬖姫有りて子款を生む。之を立てんと欲し、乃ち其の太子御寇を殺す。御寇素より厲公の子完を愛す。完禍の己に及ばんことを懼れ、乃ち斉に奔る。斉の桓公陳完をして卿為らしめんと欲す。完曰く、「羈旅の臣、幸ひに負檐(ふたん)を免るるを得たるは、君の恵みなり。敢て高位に当たらず」と。桓公工正と為さしむ。斉の懿仲陳の敬仲に妻せんと欲し、之を卜す。占に曰く、「是れ鳳皇于に飛び、和鳴鏘鏘たりと謂ふ。有媯の後、将に姜に育たんとす。五世にして其れ昌え、正卿に并ぶ。八世の後、之と京(おほい)なるもの莫し」と。三十七年、斉の桓公蔡を伐ち、蔡敗る。南のかた楚を侵し、召陵に至り、還りて陳を過ぐ。陳の大夫轅濤塗其の陳を過ぐるを悪み、斉を詐りて東道に出でしむ。東道悪しく、桓公怒り、陳の轅濤塗を執ふ。是の歳、晋の献公其の太子申生を殺す。四十五年、宣公卒し、子の款立つ。是を穆公と為す。穆公の五年、斉の桓公卒す。十六年、晋の文公楚の師を城濮に敗る。是の歳、穆公卒し、子の共公朔立つ。共公の六年、楚の太子商臣其の父成王を弑して代はり立つ。是を穆王と為す。十一年、秦の穆公卒す。十八年、共公卒し、子の霊公平国立つ。霊公の元年、楚の荘王即位す。六年、楚陳を伐つ。十年、陳楚と平らぐ。
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尚書・洛誥師に居り、宗を惇くし礼を将(おこな)ひ、元祀を称秩し、咸く秩して文無きものまで祀らしむ。惟れ公の徳は上下に明光し、勤めて四方に施し、旁く穆穆を作し、衡を御して迷はず、文武の勤教あり。予沖子は夙夜祀を毖(つつし)まん。」王曰く、「公の功は棐迪篤く、時(こ)れに若はざる罔し。」王曰く、「公、予小子は其れ退きて周に即辟し、公に命じて後(とど)めん。四方迪(すす)みて乱(おさ)まれども、未だ宗礼を定むるに及ばず、亦未だ公の功を敉(を)ふる克はず。迪(みちび)きて其の後を将ひ、我が士・師・工を監し、誕いに文武の受けし民を保ち、乱めて四輔と為れ。」王曰く、「公定まれ、予は往かんのみ。公の功は粛将祗歓せらる。公、我を困しむる無かれ。惟れ其の康事に斁(いと)ふこと無く、公替(す)つる勿く、四方に刑(のり)とならば、其れ世々享けん。」周公拝手稽首して曰く、「王、予に命じて来たりて乃の文祖の受命の民を承保し、越(およ)び乃の光烈なる考武王を弘めしむ、朕恭す。孺子来たりて宅を相(み)、其れ大いに殷の献民を惇典し、乱めて四方の新辟と為り、周の恭先と作れ。曰く、其れ時より中乂すれば、万邦咸休し、惟れ王に成績有らん。予旦、多子越び御事を以て、前人の成烈を篤くし、其の師に答へ、周の孚先と作らん。朕が昭子の刑を考へ、乃ち文祖の徳を単(つく)さん。伻をして来たりて殷を毖(いまし)めしめ、乃ち命じて予を寧(やす)んずるに秬鬯二卣を以てし、曰く、『明禋し、拝手稽首して休く享せよ』と。予敢へて宿せず、則ち文王・武王に禋す。恵みて篤く叙し、自ら疾に遘ふこと有る無く、万年乃の徳に猒(あ)き、殷乃ち引考せん。王、殷をして乃ち承叙せしめば、万年其れ永く朕が子の徳を懐くを観ん。」戊辰、王、新邑に在りて烝祭し、歳に文王に騂牛一、武王に騂牛一。王、作冊逸に命じて祝冊せしめ、惟れ周公其の後(とど)まるを告ぐ。王の賓、殺し禋し、咸く格る。王、太室に入りて祼す。王、周公に命じて後めしめ、作冊逸誥す。十有二月に在り。惟れ周公誕いに文武の受命を保つこと、惟れ七年なり。
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『太上感応篇』善行・人の得るを見ること、己の得るが如し人の得るを見ること、己の得るが如し。人の失ふを見ること、己の失ふが如し。人の短を彰さず、己の長を炫らかさず。悪を遏め善を揚げ、多きを推して少なきを取る。
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論語・雍也篇子曰く、孟之反は伐らず。奔りて殿たり。将に門に入らんとして、其の馬に策うちて曰く、『敢えて後れたるに非ず、馬進まざればなり』と。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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