史記 / 汲鄭列伝
太史公曰、汲・鄭の賢を以てすら、勢有れば則ち賓客十倍し、勢無ければ則ち否、況んや衆人をや。下邽の翟公言へる有り、始め翟公廷尉為るや、賓客門に闐つ。廃せらるるに及び、門外雀羅を設く可し。翟公復た廷尉と為るや、賓客往かんと欲す、翟公乃ち其の門に署して曰、一死一生、乃ち交情を知る。一貧一富、乃ち交態を知る。一貴一賤、交情乃ち見はると。汲・鄭も亦た云ふ、悲しいかな。
書き下し
太史公曰く、汲・鄭の賢を以てすら、勢有れば則ち賓客十倍し、勢無ければ則ち否、況んや衆人をや。下邽の翟公言へる有り、始め翟公廷尉為るや、賓客門に闐つ。廃せらるるに及び、門外雀羅を設く可し。翟公復た廷尉と為るや、賓客往かんと欲す、翟公乃ち其の門に署して曰く、「一死一生、乃ち交情を知る。一貧一富、乃ち交態を知る。一貴一賤、交情乃ち見はる」と。汲・鄭も亦た云ふ、悲しいかな。
現代語訳
「真の人間関係は、順境ではなく、逆境においてこそ、その本性が現れる」——人の交わりの実相を、翟公の逸話とともに司馬遷が総括する、この篇の結びです。司馬遷は、汲黯と鄭当時という、二人の賢者の身の上を振り返って嘆きます。「あれほど優れた汲黯や鄭当時でさえ、権勢があるときには客が十倍にも群がり、権勢を失えば、客は寄りつかなくなった。まして、(賢者でもない)普通の人であれば、なおさらのことだ」と。そして、翟公という人物の、痛烈な逸話を引きます。翟公が廷尉(司法長官)という高い地位にあったとき、その門前は、訪ねてくる客でごった返していました。ところが、彼が職を失うと、門の外には「雀を捕る網を張れるほど(門外可設雀羅)」——訪れる者もなく、閑散としてしまった。やがて翟公が再び廷尉に返り咲くと、客たちはまた押しかけようとします。そこで翟公は、自宅の門に、こう大書して掲げました。「一度死にかけ、一度生き返るような目に遭って、はじめて友情の真価が分かる(一死一生、乃知交情)。一度貧しくなり、一度富むことを経験して、はじめて人付き合いの本性が分かる(一貧一富、乃知交態)。一度地位を失い、一度地位を得て、はじめて、真の交情が見えてくる(一貴一賤、交情乃見)」と。地位や勢いに群がる者の薄情さを、鋭く突いたのです。司馬遷は「汲黯と鄭当時もまた、(翟公と)同じ目に遭った。ああ、なんと悲しいことか」と結びます。ここに、人間関係の実相についての教訓があります。第一に、地位や権勢に群がってくる者の多くは、その地位や権勢を慕っているのであって、その人自身を慕っているのではないということ。勢いがあれば十倍の客が群がり、勢いを失えば去っていく——それが世の常である。第二に、真の人間関係は、順境ではなく、逆境においてこそ、その本性が現れるということ(一貴一賤、交情乃見)。自分が地位や富を失ったとき、なお変わらず側にいてくれる者こそ、真の友である。第三に、だからこそ、自分が勢いのあるうちに、集まる人が「自分」を見ているのか「地位」を見ているのかを、冷静に見極めておくべきだということ。組織や人生で、権勢に群がる者の薄情さを知ること、真の関係は逆境でこそ見分けられると理解すること、そして自分が力を持つうちに人間関係の本質を見極めておくこと——翟公の門の言葉は、人の交わりの実相を、痛切に教えます。