史記 / 司馬相如列伝
相如雖多虛辭濫說,然其要歸引之節儉,此與詩之風諫何異。楊雄以為靡麗之賦,勸百風一,猶馳騁鄭衛之聲,曲終而奏雅,不已虧乎?餘采其語可論者著於篇。
新字:相如雖多虚辞濫説,然其要帰引之節倹,此与詩之風諫何異。楊雄以為靡麗之賦,勧百風一,猶馳騁鄭衛之声,曲終而奏雅,不已虧乎?余采其語可論者著於篇。
書き下し
相如虚辞濫説多しと雖も、然れども其の要は之を引きて節倹に帰す、此れ詩の風諫と何ぞ異ならん。楊雄以為へらく靡麗の賦は、勧むること百にして風すること一、猶ほ鄭衛の声を馳騁し、曲終はりて雅を奏するがごとし、已に虧けずやと。余其の語の論ずべき者を采りて篇に著す。
現代語訳
相如の賦には虚構の言葉やとりとめのない説が多いが、その要点は倹約へと導いて帰着させている。これは『詩経』の遠回しの諫めと何の違いがあろうか。揚雄は、華麗な賦というものは、贅沢を勧めることが百で諫めることは一つにすぎず、ちょうど鄭・衛の淫らな音楽を思う存分奏でておいて、曲の終わりに雅楽を奏でるようなもので、すでに損なわれているではないか、と考えた。わたしは相如の言葉のうち論ずるに値するものを採って、この篇に記した。
解説
司馬相如列伝を締めくくる太史公曰の後半です。司馬遷は、相如の賦には虚構や大げさな言葉が多いが、最後は倹約に帰着させて君主を諫めており、『詩経』の風刺と同じ役割を果たしていると擁護します。一方で後漢の揚雄の、華麗な賦は贅沢を百勧めて一つ諫めるだけで、淫らな音楽を奏で尽くしてから最後に雅楽を添えるようなものだという厳しい評も紹介しています。揚雄は司馬遷より後の人なので、この一文は後人の書き加えとする説が有力です。表現の華やかさが本来のメッセージを覆い隠してしまうのではないかという問いは、今の広告やプレゼンテーションにもそのまま当てはまります。伝えたい核心が、飾りの多さに埋もれていないかを見直させる評です。
この章句が説くこと
風刺司馬相如口吃なれども善く書を著す表現強みを活かす諫言
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