史記 / 朝鮮列伝
太史公曰:右渠負固,國以絕祀。涉何誣功,為兵發首。樓船將狹,及難離咎。悔失番禺,乃反見疑。荀彘爭勞,與遂皆誅。兩軍俱辱,將率莫侯矣。
新字:太史公曰:右渠負固,国以絶祀。渉何誣功,為兵発首。楼船将狭,及難離咎。悔失番禺,乃反見疑。荀彘争労,与遂皆誅。両軍倶辱,将率莫侯矣。
書き下し
太史公曰く、「右渠固を負み、国以て祀を絶つ。涉何功を誣ひ、兵を発するの首と為る。樓船将狹く、難に及びて咎に離る。番禺を失ふを悔い、乃ち反りて疑はる。荀彘労を争ひ、遂と皆誅せらる。両軍俱に辱められ、将率侯たる莫し」と。
現代語訳
太史公は言う。「右渠は地形の堅固さを頼み、国はそれによって祭りを絶やした。涉何は功を偽り、出兵の口火を切った。楼船将軍は器量が狭く、危難に際して咎めを受けた。番禺での失態を悔いて、かえって疑われた。荀彘は功を争い、遂とともに誅せられた。二つの軍はどちらも辱められ、将軍は誰一人、諸侯に封じられなかった」。
解説
「関わった者がことごとく身を滅ぼす——負けの連鎖を、司馬遷が総括する」結びの一段です。司馬遷は、朝鮮をめぐる一連の顛末を、関わった人物一人ひとりの末路として、簡潔に振り返ります。まず朝鮮王・右渠。「右渠は、要害の地形と自らの頑固さを頼みにして(負固)漢に逆らい、その結果、国は滅び、祭祀を絶やす(王家が絶える)ことになった」。頼みの守りに固執した頑迷さが、国を滅ぼした。次に漢の使者・涉何。「涉何は、(朝鮮の副王を殺したことを)功績と偽り、それが戦争を引き起こす発端となった」。虚偽の手柄が、無用な戦の火種となった。楼船将軍・楊仆。「楼船将軍は、器量が狭く(将狹)、危難に際して咎めを受けた。以前に番禺(南越戦)で失敗したことを悔い、(挽回を焦って)かえって疑われることになった」。狭量と焦りが、彼を追い詰めた。左将軍・荀彘。「荀彘は、手柄を争い(爭勞)、(介入した役人の)公孫遂ともども処刑された」。功名争いが、身を滅ぼした。そして司馬遷は結びます。「両軍はともに辱めを受け、将軍たちは誰一人、侯に封ぜられることはなかった(兩軍俱辱、將率莫侯矣)」。戦には勝ったのに、関わった者はことごとく罰せられ、誰も栄誉を得られなかったのです。ここに、負けの連鎖についての教訓があります。第一に、頑固な固執、虚偽の手柄、狭い器量、功名争い——それぞれの欠点が、関わった者すべてを、ことごとく破滅へ導いたということ。右渠の頑迷、涉何の虚偽、楊仆の狭量と焦り、荀彘の功名争い——各人の欠点が、負けの連鎖を生んだ。第二に、たとえ大きな目標(朝鮮平定)が達成されても、その過程が争いと不信に満ちていれば、関わった者は誰も報われないということ(兩軍俱辱、將率莫侯)。勝利そのものより、そこへ至る過程の質が、人の栄辱を分ける。第三に、他者の欠点を対岸の火事とせず、我が身を省みる鏡とすること。司馬遷が各人の欠点を列挙したのは、読む者への戒めである。組織や人生で、頑迷・虚偽・狭量・功名争いといった欠点が身を滅ぼすと知ること、目標達成の過程が争いに満ちていれば誰も報われないと自覚すること、そして他者の失敗を我が身を省みる鏡とすること——司馬遷の総括は、負けの連鎖を避ける知恵を教えます。
この章句が説くこと
太史公評右渠負固渉何誣功両軍俱辱将率莫侯両軍倶辱将率莫侯負けの連鎖
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