史記 / 朝鮮列伝
會孝惠、高后時天下初定,遼東太守即約滿為外臣,保塞外蠻夷,無使盜邊;諸蠻夷君長欲入見天子,勿得禁止。以聞,上許之,以故滿得兵威財物侵降其旁小邑,真番、臨屯皆來服屬,方數千里。
新字:会孝恵、高后時天下初定,遼東太守即約満為外臣,保塞外蠻夷,無使盗辺;諸蠻夷君長欲入見天子,勿得禁止。以聞,上許之,以故満得兵威財物侵降其旁小邑,真番、臨屯皆来服属,方数千里。
書き下し
会たま孝惠・高后の時天下初めて定まるや、遼東太守即ち満と約して外臣と為し、塞外の蛮夷を保ち、辺を盗ましむる無からしめ、諸蛮夷の君長天子に入見せんと欲すれば、禁止するを得る勿からしむ。以て聞す、上之を許す、故を以て満兵威財物を得て其の旁の小邑を侵降し、真番・臨屯皆来たり服属し、方数千里なり。
現代語訳
ちょうど孝惠帝・高后の時代、天下が定まったばかりのころ、遼東の太守は衛満と盟約を結び、外臣とした。国境の外の蛮夷を統率させ、辺境を侵させないようにし、蛮夷の君長が天子に謁見したいと望めば、それを妨げないこととした。この件を朝廷に報告すると、帝は許可した。それによって満は兵威と財物を得て、周辺の小さな邑を侵して降し、真番や臨屯もみなやって来て服属し、その領域は数千里四方に及んだ。
解説
「互いの利益がかみ合う取り決めを結び、双方が得をする関係を築く」——衛満と漢が結んだ、互恵的な同盟のかたちを描いた一段です。漢の建国期、天下がようやく定まった頃、遼東の太守は、朝鮮の王・衛満と、ある取り決めを結びました。衛満を「外臣(辺境の臣下)」とし、その役割を明確に定めたのです。すなわち、衛満は漢の国境の外側で、周辺の異民族をまとめて治め、彼らが漢の国境を侵して略奪しないよう防ぐ。また、周辺の君長たちが漢の天子に謁見したいと望めば、それを妨げない——この二つを担うことになりました。太守はこれを朝廷に報告し、皇帝も承認します。この取り決めによって、衛満は漢の後ろ盾(軍事力と経済的支援)を得て、周辺の小国を従え、真番や臨屯といった国々を服属させ、その領土は数千里に広がりました。漢は国境の安定という利益を得、衛満は勢力拡大の後ろ盾という利益を得る——双方の利害がかみ合った、互恵的な関係が成り立ったのです。ここに、協力関係の築き方についての教訓があります。第一に、互いの利益がかみ合う取り決めを結ぶことで、双方が得をする関係を築けるということ。漢は国境の安全を、衛満は勢力拡大の支援を得た。一方だけが得をする関係は長続きしないが、双方に明確な利益がある関係は、安定して機能する。第二に、それぞれの役割と責任を明確に定めることが、良い協力関係の土台になるということ。衛満の担うべきこと(国境を守る、他者の謁見を妨げない)が具体的に定められていたからこそ、関係が機能した。第三に、しかし——後に見るように、この関係は、衛満の孫の代に「他者の謁見を妨げる(擁閼不通)」という約束違反によって崩れていく。互恵関係は、定めた役割を守り続けてこそ保たれる。組織や取引で、双方の利益がかみ合う互恵的な関係を築くこと、それぞれの役割と責任を明確に定めること、そして定めた約束を守り続けることで関係を保つこと——衛満の外臣の取り決めは、win-winの協力関係の要諦を教えます。
この章句が説くこと
衛満外臣の取り決め互恵的な関係win-win双方の利益がかみ合う役割と責任の明確化
関連する章句
-
史記 朝鮮列伝朝鮮王満は、故の燕人なり。始めて燕を全うせし時より嘗て真番・朝鮮を略属し、為に吏を置き、鄣塞を築く。秦燕を滅ぼし、遼東の外徼に属す。漢興り、其の遠くして守り難きが為に、復た遼東の故塞を修め、浿水に至りて界と為し、燕に属す。燕王盧綰反し、匈奴に入る、満亡命し、党千余人を聚め、魋結して蛮夷の服して東して走りて塞を出で、浿水を渡り、秦の故の空地上下鄣に居り、稍く真番・朝鮮の蛮夷及び故の燕・斉の亡命者を役属して之に王たり、王険に都す。
-
史記 朝鮮列伝左将軍朝鮮を急撃す、朝鮮の大臣乃ち陰かに閒して人をして私かに樓船に降るを約せしめ、往来言ふも、尚ほ未だ決するを肯んぜず。左将軍数しば樓船と戦を期するも、樓船其の約を急就せんと欲し、会せず。左将軍も亦た人をして閒めて朝鮮を卻降せしめんとするも、朝鮮肯んぜず、心樓船に附く。以故両将相能はず。左将軍心に樓船の前に失軍の罪有るを意ひ、今朝鮮と私善して又降らざれば、其の反計有るを疑ひ、未だ敢て発せず。天子曰く、「将率能はず、両将城を囲むも、又乖異し、以故久しく決せず」と。
-
史記 朝鮮列伝子に伝へ孫の右渠に至り、誘ふ所の漢の亡人滋ます多く、又未だ嘗て入見せず。真番の旁の衆国上書して天子に見えんと欲するも、又擁閼して通ぜず。元封二年、漢使涉何右渠を譙諭するも、終に詔を奉ずるを肯んぜず。何去りて界上に至り、浿水に臨み、御をして送何する者朝鮮の裨王長を刺殺せしめ、即ち渡り、馳せて塞に入り、遂に帰りて天子に報じて曰く、「朝鮮の将を殺す」と。上其の名の美なるが為に、即ち詰らず、何を拝して遼東東部都尉と為す。朝鮮何を怨み、兵を発して襲ひて何を攻め殺す。
-
史記 南越列伝孝文帝元年、初めて天下を鎮撫す。乃ち佗の親冢の真定に在るが為に、守邑を置き、歳時奉祀す。其の従昆弟を召し、官を尊くし賜を厚くして之を寵す。乃ち陸賈を召して以て太中大夫と為し、往きて使ひせしむ。陸賈南越に至るや、王甚だ恐れ、書を為りて謝す。乃ち頓首謝し、長く藩臣為り、貢職を奉ぜんことを願ふ。是に於て乃ち国中に令を下して曰く、「吾聞く両雄は俱には立たず、両賢は世を并せずと。皇帝は賢天子なり。今より以後、帝制黄屋左纛を去らん」と。陸賈還りて報じ、孝文帝大いに説ぶ。
-
史記 朝鮮列伝左将軍已に両軍を并せ、即ち急ぎ朝鮮を撃つ。朝鮮の相路人・相韓陰・尼谿相参・将軍王唊相与に謀りて、皆亡げて漢に降る。尼谿相参乃ち人をして朝鮮王右渠を殺して来降せしむ。左将軍徵し至り、功を争ひ相嫉むに坐し、計に乖くに坐して、棄市せらる。樓船将軍も亦た兵洌口に至り、当に左将軍を待つべきに、擅に先づ縦ちて、失亡多きに坐して、当に誅すべきも、贖ひて庶人と為る。
-
史記 匈奴列伝朕聞く、古の帝王は、約分明にして食言無しと。単于志を留めば、天下大いに安からん。和親の後、漢の過は先んぜず。単于其れ之を察せよ」と。単于既に和親を約す。是に於て御史に制詔して曰く、「匈奴の大単于朕に書を遺り、和親已に定まると言ふ。亡人は以て衆を益し地を広むるに足らず。匈奴は塞に入る無く、漢は塞を出づる無し。今の約を犯す者は之を殺さば、以て久しく親しむべく、後に咎無く、倶に便ならん。朕已に之を許す。其れ天下に布告し、明らかに之を知らしめよ」と。後四歳、老上稽粥単于死し、子軍臣立ちて単于と為る。既に立ち、孝文皇帝復た匈奴と和親す。而して中行説復た之に事ふ。軍臣単于立ちて四歳、匈奴復た和親を絶ち、大いに上郡・雲中に入ること各々三万騎、殺略する所甚だ衆くして去る。是に於て漢三将軍をして軍して北地に屯し、代は句注に屯し、趙は飛狐口に屯せしめ、辺に縁りて亦各々堅守して以て胡寇に備ふ。又三将軍を置き、長安の西の細柳、渭北の棘門、覇上に軍して以て胡に備ふ。胡騎代の句注の辺に入り、烽火甘泉・長安に通ず。数月にして、漢の兵辺に至り、匈奴も亦遠く塞を去り、漢の兵も亦罷む。後歳余にして、孝文帝崩じ、孝景帝立つ。而して趙王遂乃ち陰かに人を匈奴に使はす。呉楚反し、趙と合謀して辺に入らんと欲す。漢趙を囲み破り、匈奴も亦止む。是より後、孝景帝復た匈奴と和親し、関市を通じ、匈奴に給遺し、公主を遣はすこと、故約の如し。孝景の時を終ふるまで、時に小しく入りて辺を盗むも、大寇無し。今帝即位し、和親の約束を明らかにし、厚く遇し、関市を通じ、饒かに之に給す。匈奴単于より以下皆漢に親しみ、長城の下に往来す。漢馬邑の下の人聶翁壹をして奸蘭に物を出だして匈奴と交はらしめ、詳りて馬邑の城を売ると為して以て単于を誘ふ。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る