史記 / 扁鵲倉公列伝
文帝四年中,人上書言意,以刑罪當傳西之長安。意有五女,隨而泣。意怒,罵曰:「生子不生男,緩急無可使者!」於是少女緹縈傷父之言,乃隨父西。上書曰:「妾父為吏,齊中稱其廉平,今坐法當刑。妾切痛死者不可復生而刑者不可復續,雖欲改過自新,其道莫由,終不可得。妾願入身為官婢,以贖父刑罪,使得改行自新也。」書聞,上悲其意,此歲中亦除肉刑法。
新字:文帝四年中,人上書言意,以刑罪当伝西之長安。意有五女,随而泣。意怒,罵曰:「生子不生男,緩急無可使者!」於是少女緹縈傷父之言,乃随父西。上書曰:「妾父為吏,斉中称其廉平,今坐法当刑。妾切痛死者不可復生而刑者不可復続,雖欲改過自新,其道莫由,終不可得。妾願入身為官婢,以贖父刑罪,使得改行自新也。」書聞,上悲其意,此歳中亦除肉刑法。
書き下し
文帝の四年中、人上書して意を言ふ。刑罪を以て当に伝して西のかた長安に之くべし。意に五女有り、随ひて泣く。意怒りて罵りて曰く、「子を生むも男を生まず。緩急に使ふべき者無し」と。是に於て少女緹縈父の言に傷み、乃ち父に随ひて西す。上書して曰く、「妾が父吏と為り、斉中其の廉平を称す。今法に坐して当に刑せらるべし。妾切に痛む、死者は復た生くべからず、而して刑せらるる者は復た続くべからず。過を改めて自ら新たにせんと欲すと雖も、其の道由る莫く、終に得べからず。妾願はくは身を入れて官婢と為り、以て父の刑罪を贖ひ、行ひを改めて自ら新たにするを得しめん」と。書聞す。上其の意を悲しみ、此の歳中に亦肉刑の法を除く。
現代語訳
文帝の四年のうちに、ある人が上書して淳于意を告発した。意は刑罰を受けるべき罪によって、護送されて西の長安に行くことになった。意には五人の娘がいて、後について泣いた。意は怒ってののしった。「子を産んでも男を産まなかった。いざという時に役に立つ者がいない」。すると末娘の緹縈は父の言葉に心を痛め、父について西へ向かった。そして上書して言った。「わたくしの父は役人となり、斉の国じゅうでその清廉公平さがたたえられている。今、法に触れて刑罰を受けることになった。わたくしが心から痛ましく思うのは、死んだ者は再び生き返ることができず、刑罰で体を傷つけられた者は再びもとに戻ることができないことである。過ちを改めて生まれ変わろうとしても、その道がなく、ついにかなわない。どうかわたくしの身を官の奴婢として差し出し、それによって父の刑罰を贖い、父が行いを改めて生まれ変われるようにしていただきたい」。上書は天子に届いた。文帝はその心根を哀れみ、この年のうちに肉刑(体を傷つける刑罰)の法も廃止した。
解説

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史記 孝文本紀五月、斉の太倉の令淳于公罪有りて刑に当たる、詔獄逮へて徙して長安に繋ぐ。太倉公男無く、女五人有り。太倉公将に行きて逮に会はんとす、其の女を罵りて曰く、「子を生みて男を生まず、緩急有れば益有るに非ざるなり。」と。其の少女緹縈自ら傷みて泣き、乃ち其の父に随ひて長安に至り、上書して曰く、「妾の父吏為り、斉中皆其の廉平を称す、今法に坐して刑に当たる。妾傷む夫れ死する者は復た生くべからず、刑せらるる者は復た属すべからず、復た過ちを改めて自ら新たにせんと欲すと雖も、其の道由無きを。妾願はくは没入して官婢と為り、父の刑罪を贖ひ、自ら新たにするを得しめん。」と。書天子に奏せらる、天子其の意を憐悲し、乃ち詔を下して曰く、「蓋し聞く有虞氏の時、衣冠に画き章服を異にして以て僇と為し、而して民犯さずと。何となれば、至治なればなり。今法に肉刑三有り、而して姦止まず、其の咎安くにか在る。乃ち朕の徳薄くして教へ明らかならざるに非ずや。吾甚だ自ら愧づ。故に夫れ馴道純ならずして愚民陥る。詩に曰く『愷悌の君子は、民の父母』と。今人過ち有り、教へ未だ施さずして刑加はる。或いは行ひを改めて善を為さんと欲すれども道由毋きなり。朕甚だ之を憐れむ。夫れ刑支体を断ち、肌膚を刻むに至り、終身息まず、何ぞ其れ楚痛にして不徳なるや、豈に民の父母為るの意に称はんや。其れ肉刑を除け。」と。上曰く、「農は、天下の本なり、務め焉より大なるは莫し。今身を勤めて事に従ひて租税の賦有り、是れ本末を為す者異なる以毋し、其の農を勧むるの道に於て未だ備はらず。其れ田の租税を除け。」と。十四年冬、匈奴辺に入りて寇を為さんと謀り、朝那塞を攻め、北地の都尉卬を殺す。上乃ち三将軍を遣はして隴西・北地・上郡に軍せしめ、中尉周舎を衛将軍と為し、郎中令張武を車騎将軍と為し、渭北に軍せしむ、車千乗、騎卒十万。帝親ら自ら軍を労ひ、兵を勒して教令を申ね、軍の吏卒に賜ふ。
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群書治要・『群書治要』漢書二・罪は教えの足りなさにあると省みる書、天子に奏せられ、天子其の意を憐れみ悲しむ。遂に令を下して曰く、蓋し聞く、有虞氏の時、衣冠に画き、章服を異にして以て戮と為せども、民犯さず、何ぞ治の至れるや。今法に肉刑三有るも、奸止まず、其の咎安くにか在る。乃ち朕の徳の薄くして教え明らかならざるに非ずや。吾甚だ自ら愧ず。故に夫れ訓道純ならずして、愚民陥る。詩に曰く、凱悌の君子は、民の父母、と。今人過ち有るに、教え未だ施されずして刑已に加わる。或いは行いを改め善を為さんと欲すれども、道の至る無し。朕甚だ之を憐れむ。夫れ刑の支体を断ち、肌膚を刻み、終身息まざるに至るは、何ぞ其の刑の痛みて不徳なるや。豈に民の父母たる意に称わんや。其れ肉刑を除き、以て之に易うる有れ。
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史記 扁鵲倉公列伝太倉公は、斉の太倉の長にして、臨菑の人なり。姓は淳于氏、名は意。少くして医方の術を喜む。高后八年、更めて師として同郡元里の公乗陽慶に受く。慶は年七十余にして、子無し。意をして尽く其の故の方を去らしめ、更めて悉く禁方を以て之に予ふ。黄帝・扁鵲の脈書を伝へ、五色もて病を診、人の死生を知り、嫌疑を決し、治すべきを定め、及び薬論、甚だ精し。之を受くること三年、人の為に病を治し、死生を決するに験多し。然れども左右諸侯に行游し、家を以て家と為さず、或いは人の為に病を治せず、病家多く之を怨む者あり。
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史記 扁鵲倉公列伝時に未だ往かざるに、会々慶の子男殷来りて馬を献ず。師光に因りて馬を王の所に奏す。意故を以て殷と善きを得たり。光又意を殷に属して曰く、『意は数を好む。公必ず謹みて之を遇せよ。其の人は聖儒なり』と。即ち書を為りて意を以て陽慶に属す。故を以て慶を知る。臣意慶に事ふること謹む。故を以て意を愛するなり」と。臣意に問ひて曰く、「吏民嘗て事として意の方を学び、及び畢く尽く意の方を得たるもの有りや不や。何れの県里の人ぞ」と。対へて曰く、「臨菑の人宋邑。邑学ぶ。臣意教ふるに五診を以てすること、歳余。済北王太医高期・王禹を遣はして学ばしむ。臣意教ふるに経脈の高下及び奇絡の結、当に俞の居る所を論ずべきこと、及び気の当に上下出入すべき邪正逆順、以て鑱石に宜しきこと、砭灸の処を定むることを以てすること、歳余。菑川王時に太倉の馬長馮信を遣はして方を正さしむ。臣意教ふるに案法逆順、薬法を論じ、五味及び和斉湯法を定むることを以てす。高永侯の家丞杜信、脈を喜み、来り学ぶ。臣意教ふるに上下経脈五診を以てすること、二歳余。臨菑の召里の唐安来り学ぶ。臣意教ふるに五診上下経脈、奇咳、四時陰陽に応ずるの重を以てす。未だ成らずして、除せられて斉王の侍医と為る」と。臣意に問ふ、「病を診し死生を決するに、能く全く失無きか」と。臣意対へて曰く、「意病人を治するに、必ず先づ其の脈を切して、乃ち之を治す。敗逆なる者は治すべからず。其の順なる者は乃ち之を治す。心脈に精しからず、期する所の死生、治すべきを視るに、時時之を失す。臣意全くする能はざるなり」と。太史公曰く、女は美悪と無く、宮に居れば妒まる。士は賢不肖と無く、朝に入れば疑はる。故に扁鵲は其の伎を以て殃せられ、倉公乃ち跡を匿して自ら隠れて刑に当たる。緹縈尺牘を通じ、父以て後に寧きを得たり。故に老子曰く、「美好なる者は不祥の器なり」と。豈に扁鵲等を謂ふか。倉公の若き者は、之に近しと謂ふべし。手の三陽の脈は、手より頭に至るまで長さ五尺、五六合して三丈。
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史記 孝文本紀太尉身ら襄平侯通を率ゐて節を持ちて詔を承けて北軍に入る。典客劉掲身ら趙王呂禄の印を奪ふ。太尉勃に封を益すこと万戸、金五千斤を賜ふ。丞相陳平・灌将軍嬰に邑各々三千戸、金二千斤。朱虚侯劉章・襄平侯通・東牟侯劉興居に邑各々二千戸、金千斤。典客掲を封じて陽信侯と為し、金千斤を賜ふ。」と。十二月、上曰く、「法は、治の正なり、暴を禁じて善人を率ゐる所以なり。今法を犯して已に論ぜらるるに、而して罪毋き父母妻子同産をして之に坐せしめ、及び収帑と為す、朕甚だ取らず。其れ之を議せよ。」と。有司皆曰く、「民自ら治むる能はず、故に法を為りて以て之を禁ず。相坐し坐して収むるは、其の心を累して、法を犯すことを重んぜしむる所以なり、従りて来たる所遠し。故の如くするが便なり。」と。上曰く、「朕聞く法正しければ則ち民愨(つつし)み、罪当たれば則ち民従ふと。且つ夫れ民を牧して之を善に導く者は、吏なり。其れ既に導く能はず、又不正の法を以て之を罪す、是れ反つて民を害して暴を為す者なり。何を以て之を禁ぜん。朕未だ其の便なるを見ず、其れ孰(つらつら)之を計れ。」と。有司皆曰く、「陛下大恵を加ふ、徳甚だ盛んなり、臣等の及ぶ所に非ざるなり。請ふ詔書を奉じて、収帑諸相坐の律令を除かん。」と。正月、有司言ひて曰く、「蚤く太子を建つるは、宗廟を尊ぶ所以なり。請ふ太子を立てん。」と。上曰く、「朕既に不徳なり、上帝神明未だ歆享せず、天下の人民未だ嗛志有らず。今縦ひ博く天下の賢聖有徳の人を求めて天下を禅(ゆづ)る能はずとも、而して豫め太子を建つと曰ふは、是れ吾が不徳を重ぬるなり。天下を何と謂はん。其れ之を安んぜよ。」と。有司曰く、「豫め太子を建つるは、宗廟社稷を重んじて、天下を忘れざる所以なり。」と。上曰く、「楚王は、季父なり、春秋高く、天下の義理を閲すること多し、国家の大体に明らかなり。呉王は朕に於て、兄なり、恵仁にして以て徳を好む。
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史記 扁鵲倉公列伝意家居す。詔して召して、為に病を治して死生の験ある所の者幾何人なるか、主名は誰と為すかを問ふ。故の太倉長臣意に詔問す、「方伎の長ずる所、及び能く治する所の病は。其の書有りや無しや。皆安くにか学を受けたる。学を受くること幾何歳ぞ。嘗て験ある所有らば、何れの県里の人ぞ。何の病ぞ。医薬已みて、其の病の状は皆何如。具に悉くして対へよ」と。臣意対へて曰く、意少き時より、医薬を喜む。医薬の方之を試みるに験あらざる者多し。高后八年に至り、師臨菑元里の公乗陽慶に見ゆるを得たり。慶年七十余、意見えて之に事ふるを得たり。意に謂ひて曰く、「尽く而の方書を去れ。是に非ざるなり。慶に古先の道の遺伝せる黄帝・扁鵲の脈書有り。五色もて病を診し、人の生死を知り、嫌疑を決し、治すべきを定め、及び薬論の書あり、甚だ精し。我が家は給富なり。心に公を愛す。尽く我が禁方の書を以て悉く公に教へんと欲す」と。臣意即ち曰く、「幸甚なり。意の敢へて望む所に非ざるなり」と。臣意即ち席を避けて再拝して謁し、其の脈書上下経・五色診・奇咳術・揆度陰陽外変・薬論・石神・接陰陽禁書を受け、受読して之を解験すること、一年所可りなり。明歳即ち之を験するに、験有り。然れども尚ほ未だ精しからざるなり。要ず之に事ふること三年所、即ち嘗て已に人の為に治し、病を診し死生を決するに、験有りて、精良なり。今慶已に死すること十年所、臣意年尽三年、年三十九歳なり。斉の侍御史成、自ら頭痛を病むと言ふ。臣意其の脈を診し、告げて曰く、「君の病は悪し。言ふべからざるなり」と。即ち出でて、独り成の弟昌に告げて曰く、「此の病は疽なり。内は腸胃の間に発す。後五日にして当に擁腫すべし。後八日にして膿を嘔きて死せん」と。成の病は之を酒を飲みて且つ内するに得たり。成即ち期の如く死す。成の病を知る所以の者は、臣意其の脈を切して、肝気を得たり。肝気濁りて静かなり。此れ内関の病なり。