史記 / 田叔列伝
數年,叔以官卒,魯以百金祠,少子仁不受也,曰:「不以百金傷先人名。」仁以壯健為衛將軍舍人,數從擊匈奴。衛將軍進言仁,仁為郎中。數歲,為二千石丞相長史,失官。其後使刺舉三河。上東巡,仁奏事有辭,上說,拜為京輔都尉。月餘,上遷拜為司直。數歲,坐太子事。時左相自將兵,令司直田仁主閉守城門,坐縱太子,下吏誅死。仁發兵,長陵令車千秋上變仁,仁族死。陘城今在中山國。太史公曰:孔子稱曰「居是國必聞其政」,田叔之謂乎!義不忘賢,明主之美以救過。仁與余善,余故并論之。
新字:数年,叔以官卒,魯以百金祠,少子仁不受也,曰:「不以百金傷先人名。」仁以壮健為衛将軍舎人,数従撃匈奴。衛将軍進言仁,仁為郎中。数歳,為二千石丞相長史,失官。其後使刺舉三河。上東巡,仁奏事有辞,上説,拝為京輔都尉。月余,上遷拝為司直。数歳,坐太子事。時左相自将兵,令司直田仁主閉守城門,坐縦太子,下吏誅死。仁発兵,長陵令車千秋上変仁,仁族死。陘城今在中山国。太史公曰:孔子称曰「居是国必聞其政」,田叔之謂乎!義不忘賢,明主之美以救過。仁与余善,余故并論之。
書き下し
数年にして、叔官を以て卒す。魯百金を以て祠るも、少子仁受けざるなり。曰く、「百金を以て先人の名を傷つけず」と。仁は壮健を以て衛将軍の舎人と為り、数々従ひて匈奴を撃つ。衛将軍仁を進言し、仁郎中と為る。数歳にして、二千石の丞相長史と為り、官を失ふ。其の後三河を刺挙せしむ。上東巡し、仁事を奏して辞有り。上説び、拝して京輔都尉と為す。月余にして、上遷して拝して司直と為す。数歳にして、太子の事に坐す。時に左相自ら兵を将ゐ、司直田仁をして城門を閉守するを主らしむ。太子を縦すに坐し、吏に下されて誅死す。仁兵を発するに、長陵の令車千秋仁を上変し、仁族死す。陘城は今中山国に在り。太史公曰く、孔子称して曰く、「是の国に居れば必ず其の政を聞く」と。田叔の謂か。義にして賢を忘れず、主の美を明らかにして以て過を救ふ。仁は余と善し。余故に并せて之を論ず。
現代語訳
数年後、田叔は在官のまま亡くなった。魯では百金を供えて祭ろうとしたが、末子の仁は受け取らず、「百金のために父の名を傷つけるわけにはいかない」と言った。仁は壮健であったことから衛将軍(衛青)の舎人(家臣)となり、たびたび従軍して匈奴を攻撃した。衛将軍が仁を推薦したので、仁は郎中となった。数年後、二千石の丞相長史となったが、官職を失った。その後、三河(河南・河内・河東の三郡)の不正を摘発する任務に就かされた。天子が東方を巡幸したとき、仁の上奏が弁舌鮮やかだったので、天子は喜び、京輔都尉に任じた。一か月余りで、天子は仁を昇進させて司直(丞相府の監察官)とした。数年後、仁は太子の事件(巫蠱の乱)に連座した。その時、左丞相が自ら兵を率い、司直の田仁に城門を閉じて守る役を命じた。田仁は太子を逃がしたことで罪を問われ、獄吏に引き渡されて誅殺された。仁が兵を出そうとしたところ、長陵の令の車千秋が仁の反乱を上奏し、仁の一族は皆殺しにされた。陘城は今の中山国にある。太史公は言う。孔子は「その国に住めば必ずその国の政治について耳にする」と言った。田叔のことであろうか。義を守って賢者を忘れず、主君の美点を明らかにして過ちを救った。仁はわたしと親しかった。それゆえわたしは併せて論じたのである。
解説
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史記 季布欒布列伝斉に使ひし、未だ還らざるに、漢彭越を召し、責むるに謀反を以てし、三族を夷す。已にして彭越の頭を雒陽の下に梟し、詔して曰く「敢へて収め視る者有らば、輒ち之を捕へよ」と。布斉より還り、事を彭越の頭の下に奏し、祠りて之を哭す。吏布を捕へて以聞す。上布を召し、罵りて曰く「若彭越と反するか。吾人を禁じて収むる勿からしむるに、若独り祠りて之を哭す、越と反すること明らかなり。趣やかに之を亨よ」と。方に提げて湯に趣くに、布顧みて曰く「願はくは一言して死せん」と。上曰く「何をか言はん」と。布曰く「方に上の彭城に困しみ、滎陽・成皋の間に敗るるに、項王の遂に西する能はざる所以は、徒だ彭王梁の地に居り、漢と合従して楚を苦しむるを以てなり。是の時に当たり、彭王一たび顧みて、楚に与せば則ち漢破れ、漢に与せば楚破れん。且つ垓下の会、彭王微かりせば、項氏亡びず。天下已に定まり、彭王符を剖き封を受く、亦た之を万世に伝へんと欲す。今陛下一たび兵を梁に徴し、彭王病みて行かず、而るに陛下疑ひて以て反と為す、反の形未だ見えざるに、苛小の案を以て之を誅滅す、臣恐らくは功臣人人自ら危ぶまん。今彭王已に死す、臣生くるは死するに如かず、請ふ亨に就かん」と。是に於て上乃ち布の罪を釈し、拝して都尉と為す。孝文の時、燕の相と為り、将軍に至る。布乃ち称して曰く「窮困して身を辱め志を下す能はざるは、人に非ず。富貴にして意を快くする能はざるは、賢に非ず」と。是に於て嘗て徳有る者には厚く之に報い、怨み有る者には必ず法を以て之を滅す。呉・楚反せし時、軍功を以て兪侯に封ぜられ、復た燕の相と為る。燕・斉の間皆欒布の為に社を立て、欒公社と号す。景帝中五年薨ず。子賁嗣ぎ、太常と為り、犠牲令の如くならず、国除かる。太史公曰く、項羽の気を以てして、季布勇を以て楚に顕はれ、身ら軍を屨みて旗を搴ること数々なり、壮士と謂ふべし。然れども刑戮を被り、人の奴と為りて死せざるに至るは、何ぞ其の下れるや。
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