史記 / 樊酈滕灌列伝
太史公曰、吾適豐沛、問其遺老、觀故蕭曹樊噲滕公之家、及其素、異哉所聞。方其鼓刀屠狗賣繒之時、豈自知附驥之尾、垂名漢廷、德流子孫哉。余與他廣通、為言高祖功臣之興時若此云。
新字:太史公曰、吾適豊沛、問其遺老、観故蕭曹樊噲滕公之家、及其素、異哉所聞。方其鼓刀屠狗売繒之時、豈自知附驥之尾、垂名漢廷、徳流子孫哉。余与他広通、為言高祖功臣之興時若此云。
書き下し
太史公曰く、「吾豊沛に適き、其の遺老に問ひ、故の蕭・曹・樊噲・滕公の家を観るに、其の素に及びては、異なるかな聞く所。方に其の刀を鼓して狗を屠り繒を売るの時、豈に自ら驥の尾に附き、名を漢廷に垂れ、徳を子孫に流すを知らんや。余他広と通じ、為に高祖の功臣の興る時此くの若しと言ふ」と。
現代語訳
太史公は言う。「私は豊と沛へ行き、その土地の古老に尋ね、かつての蕭何・曹参・樊噲・滕公の家を見てきた。その素性を知ってみると、聞いていた話とはずいぶん違っていた。彼らが包丁を振るって犬をさばき、絹を売っていたころ、まさか自分が名馬の尾に付き従うように高祖につき従い、漢の朝廷に名を残し、その徳を子孫に伝えることになろうとは、思いもしなかっただろう。私は樊噲の孫の他広と交わりがあり、彼が語ってくれた。高祖の功臣たちが世に出たころは、そんなふうだったのだ、と」。
解説
「身分の低い者たちが、優れたリーダーと出会い、その事業に加わることで、思いもよらぬ大成を遂げる」——功臣たちの出自と成功を振り返る、司馬遷の結びの一段です。司馬遷は、実際に漢の建国の功臣たちのゆかりの地・豊沛を訪れ、古老たちに話を聞き、蕭何・曹参・樊噲・夏侯嬰(滕公)といった大功臣たちの家や、彼らのもともとの出自を調べました。そして、その素性(若い頃の姿)を知って、驚きます。「聞いていた(彼らの輝かしい功績の)話とは、あまりに違う」と。というのも、彼らの出自は、実に平凡だったのです。樊噲は犬肉を売る肉屋、夏侯嬰は御者、灌嬰は絹の行商人——いずれも、身分の低い庶民でした。司馬遷は感慨を込めて記します。「彼らが、包丁を鳴らして犬を捌き、絹を売り歩いていた頃、自分たちがやがて『驥の尾に附き(=名馬の尾にとまった蠅が、名馬とともに遠くまで行けるように、優れたリーダー=高祖に従うことで)』、漢の朝廷に名をとどめ、その功徳が子孫にまで及ぶことになろうとは、思いもよらなかっただろう」と。ここに、成功と縁についての深い教訓があります。第一に、人の大成は、その人個人の資質だけでなく、「誰と出会い、どの事業に加わるか」という縁・機会に大きく左右されるということ。樊噲や夏侯嬰は、確かに勇気や忠義といった資質を持っていました。しかし、彼らが庶民から大功臣へと飛躍できたのは、高祖・劉邦という、天下を取る器のリーダーと出会い、その事業に加わったからでした(附驥之尾)。優れた人・組織・時流と結びつくことが、個人の可能性を何倍にも広げる。第二に、出自や現在の身分は、将来を決めないということ。犬の肉屋や行商人という平凡な出自の者たちが、時代の変わり目に、志ある行動を起こし、優れたリーダーと結びつくことで、歴史に名を残す大人物になった。今の身分や境遇に、可能性を限定される必要はない。第三に、しかし、それは「附く(従う)」だけでなく、彼ら自身が勇気や忠義という実質を備えていたからこそ、その縁を活かせたということ。ただ名馬の尾にとまるだけでなく、樊噲は命がけで主君を守り、夏侯嬰は信念を貫いた。縁を活かすには、自分自身の実質・資質も必要です。組織や人生で、自分の大成が、資質だけでなく「誰と出会い、どの事業・組織に加わるか」という縁に左右されること、出自や現在の身分が将来を決めないこと、そして優れた縁を活かすには自分自身の実質も必要なこと——司馬遷の功臣評は、成功における「縁」と「実質」の両輪を、味わい深く教えています。
この章句が説くこと
太史公評賤より起こる功臣附驥之尾縁と機会が大成を左右する優れたリーダーと結びつく出自は将来を決めない
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