史記 / 韓信盧綰列伝
陳豨者、宛朐人也。及高祖七年冬、韓王信反入匈奴、上至平城還、豨以郎中封為列侯、以趙相國將監趙代邊兵、邊兵皆屬焉。豨常告歸過趙、趙相周昌見豨賓客隨之者千餘乘、邯鄲官舍皆滿。豨所以待賓客布衣交、皆出客下。周昌乃求入見上、具言豨賓客盛甚、擅兵於外數歲、恐有變。上乃令人覆案豨客居代者諸不法事、多連引豨。豨恐、陰令客通使王黃所。使人召豨、豨稱病甚。遂與王黃等反、自立為代王。
新字:陳豨者、宛朐人也。及高祖七年冬、韓王信反入匈奴、上至平城還、豨以郎中封為列侯、以趙相国将監趙代辺兵、辺兵皆属焉。豨常告歸過趙、趙相周昌見豨賓客随之者千余乗、邯鄲官舎皆満。豨所以待賓客布衣交、皆出客下。周昌乃求入見上、具言豨賓客盛甚、擅兵於外数歲、恐有変。上乃令人覆案豨客居代者諸不法事、多連引豨。豨恐、陰令客通使王黄所。使人召豨、豨稱病甚。遂与王黄等反、自立為代王。
書き下し
陳豨は、宛朐の人なり。高祖七年冬、韓王信反して匈奴に入るに及び、上平城に至りて還り、豨郎中を以て列侯に封ぜられ、趙の相国を以て趙・代の辺兵を将監し、辺兵皆焉に属す。豨常に告帰して趙を過ぐ。趙の相周昌、豨の賓客の之に随ふ者千余乗、邯鄲の官舍皆満つるを見る。豨の賓客を待つ所以は布衣の交にして、皆客の下に出づ。周昌乃ち入りて上に見えんことを求め、具に豨の賓客盛んなること甚だしく、兵を外に擅にすること数歳、変有るを恐るると言ふ。上乃ち人をして豨の客の代に居る者の諸の不法の事を覆案せしむるに、多く豨に連引す。豨恐れ、陰かに客をして王黃の所に通使せしむ。使をして豨を召さしむるに、豨病甚だしと称す。遂に王黃等と反し、自立して代王と為る。
現代語訳
「有能さや人望が、かえって疑いと警戒を招き、破滅の引き金になる」——陳豨が、多くの賓客を抱えて人望を集めたがゆえに疑われ、反乱に追い込まれた経緯を描いた一段です。陳豨は、辺境の防衛を任された有力な将でした。彼には、魏公子(信陵君)のように「士に下る(身分の低い者にもへりくだって接する)」美点があり、多くの賓客(食客・人材)が彼を慕って集まっていました。あるとき陳豨が休暇で趙を通過した際、その一行の賓客の車が千台余りに及び、宿舎が満杯になるほどでした。陳豨は、彼らと対等の礼で交わり、自分を低くして遇していたのです。これは本来、人望の厚さを示す美徳です。しかし、それを見た趙の宰相・周昌は、警戒します。「陳豨は、これほど多くの賓客を抱え、しかも辺境で長年、兵権を握っている。何か異変(反乱)が起きるのではないか」と、高祖に報告したのです。高祖は、この報告を受けて、陳豨の賓客たちの不法行為を調査させます。すると、多くの事件が陳豨に結びつけられました(=疑いの目で見れば、いくらでも「証拠」が見つかった)。これに恐れをなした陳豨は、密かに反乱の準備を始め、召喚に応じず、ついに反旗を翻したのです。ここにも、疑心と恐怖の連鎖がありました。ここに、人望と警戒についての教訓があります。第一に、有能さや人望(多くの人材を集めること)が、状況によっては、かえって疑いと警戒を招くということ。陳豨が多くの賓客を厚遇したのは、本来は美徳でした。しかし、辺境で兵権を握る者が、それだけの人望と人材を集めていると、トップからは「反乱の準備では」と見なされる。力と人望が突出すると、それ自体が脅威と受け取られる。第二に、疑いの目で見れば、あらゆる行動が「証拠」に見えてしまうこと。高祖が陳豨を疑って調査すると、賓客の不法行為が次々と陳豨に結びつけられた。一度疑いが生まれると、すべてが疑いを裏づける材料に見えてしまう。第三に、そして、その警戒と調査が、疑われた者を恐怖に追い込み、本当の反乱を生んだこと(韓王信・盧綰と同じ構造)。組織で、有能さや人望・人材を集める力が、突出すると、かえって上位者の警戒を招きうること、そして疑いの目がすべてを「証拠」に変え、疑われた者を反発・離反へ追い込むこと——陳豨の反乱は、力と人望を持つ者が直面する危うさと、疑心の連鎖の恐ろしさを、繰り返し教えています。