史記 / 蒙恬列伝
太史公曰、吾適北邊、自直道歸、行觀蒙恬所為秦筑長城亭障、塹山堙谷、通直道、固輕百姓力矣。夫秦之初滅諸侯、天下之心未定、痍傷者未瘳、而恬為名將、不以此時彊諫、振百姓之急、養老存孤、務修眾庶之和、而阿意興功、此其兄弟遇誅、不亦宜乎。何乃罪地脈哉。
新字:太史公曰、吾適北辺、自直道帰、行観蒙恬所為秦筑長城亭障、塹山堙谷、通直道、固軽百姓力矣。夫秦之初滅諸侯、天下之心未定、痍傷者未瘳、而恬為名将、不以此時彊諫、振百姓之急、養老存孤、務修衆庶之和、而阿意興功、此其兄弟遇誅、不亦宜乎。何乃罪地脈哉。
書き下し
太史公曰く、「吾北辺に適き、直道より帰り、行きて蒙恬の秦の為に筑く所の長城・亭障を観るに、山を塹り谷を堙め、直道を通じ、固より百姓の力を軽んずるなり。夫れ秦の初め諸侯を滅ぼすや、天下の心未だ定まらず、痍傷者未だ瘳えず、而して恬名将為り、此の時を以て彊諫し、百姓の急を振ひ、老を養ひ孤を存し、衆庶の和を修むるを務めずして、意に阿りて功を興す、此れ其の兄弟の誅に遇ふ、亦た宜ならずや。何ぞ乃ち地脈を罪とするや」と。
現代語訳
太史公は言う。「私は北の辺境に行き、直道を通って帰り、道中、蒙恬が秦のために築いた長城や砦を見た。山を削り谷を埋め、直道を通したもので、まことに人民の力を軽んじたものである。そもそも秦が諸侯を滅ぼしたばかりのころ、天下の人心はまだ定まらず、傷ついた者もまだ癒えていなかった。それなのに蒙恬は名将でありながら、この時にこそ強く諫め、人民の窮乏を救い、老人を養い孤児を助け、人々の和を築くことに努めず、主君の意に迎合して大工事を起こした。彼ら兄弟が誅殺されたのも、当然ではないか。それをなぜ、大地の脈のせいなどにするのか」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 蒙恬列伝使者曰く、「臣詔を受けて将軍に法を行ふ、敢て将軍の言を以て上に聞せざるなり」と。蒙恬喟然として太息して曰く、「我何の罪か天に、過ち無くして死するか」と。良や久しくして、徐ろに曰く、「恬の罪固より当に死すべし。臨洮に起こして之を遼東に属け、城塹万余里、此の其の中地脈を絶つこと無き能はざらんや。此れ乃ち恬の罪なり」と。乃ち薬を吞みて自殺す。
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史記 蒙恬列伝蒙恬に令して曰く、「君の過ち多し。而して卿の弟毅大罪有り。法内史に及ぶ」と。恬曰く、「吾が先人より、子孫に及ぶまで、功信を秦に積むこと三世なり。今臣兵三十余万を将ゐ、身は囚系せらると雖も、其の勢以て倍畔するに足る。然れども自ら必ず死するを知りて義を守る者は、敢て先人の教へを辱めず、以て先主を忘れざればなり。昔周の成王初めて立ち、未だ襁緥を離れず、周公旦王を負ひて以て朝し、卒に天下を定む。成王病有りて甚だ殆きに及び、公旦自ら其の爪を揃りて以て河に沈め、曰く、『王未だ識有らず、是れ旦事を執る。罪殃有らば、旦其の不祥を受けん』と。乃ち書して之を記府に蔵す。信と謂ふべし。王の能く国を治むるに及び、賊臣有りて言ふ、『周公旦乱を為さんと欲すること久し。王若し備へずんば、必ず大事有らん』と。王乃ち大いに怒り、周公旦走りて楚に奔る。成王記府を観て、周公旦の沈書を得、乃ち流涕して曰く、『孰か周公旦の乱を為さんと欲すと謂ふや』と。之を言ふ者を殺して周公旦を反す。故に周書に曰く『必ず参にして之を伍にせよ』と。今恬の宗、世々二心無し。而して事卒に此の如し。是れ必ず孽臣の逆乱、内陵の道なり。夫れ成王は失ひて復た振るひ、則ち卒に昌ゆ。桀は関竜逢を殺し、紂は王子比干を殺して悔いず、身死して則ち国亡ぶ。臣故に曰く、過ちは振ふべく諫めは覚るべしと。参伍を察するは、上聖の法なり。凡そ臣の言は、以て咎を免れんことを求むるに非ず、将に以て諫めて死せんとす。願はくは陛下万民の為に道に従ふを思へ」と。
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史記 蒙恬列伝蒙恬は、其の先は斉人なり。恬の大父蒙驁、斉より秦の昭王に事へ、官上卿に至る。秦の荘襄王の元年、蒙驁秦の将と為り、韓を伐ち、成皋・滎陽を取り、三川郡を作置す。二年、蒙驁趙を攻め、三十七城を取る。始皇の三年、蒙驁韓を攻め、十三城を取る。五年、蒙驁魏を攻め、二十城を取り、東郡を作置す。始皇の七年、蒙驁卒す。驁の子を武と曰ひ、武の子を恬と曰ふ。恬嘗て獄を書し文学を典る。始皇の二十三年、蒙武秦の裨将軍と為り、王翦と楚を攻め、大いに之を破り、項燕を殺す。二十四年、蒙武楚を攻め、楚王を虜にす。蒙恬の弟は毅なり。始皇の二十六年、蒙恬家世に因りて秦の将と為るを得、斉を攻め、大いに之を破り、拝して内史と為る。秦已に天下を并せ、乃ち蒙恬をして三十万の衆を将ゐて北のかた戎狄を逐ひ、河南を収めしむ。長城を筑き、地形に因り、用て険塞を制し、臨洮に起こり、遼東に至る。延袤万余里。是に於て河を渡り、陽山に拠り、逶蛇して北す。師を外に暴すこと十余年、上郡に居る。是の時蒙恬の威匈奴を振るはす。始皇甚だ蒙氏を尊寵し、信任して之を賢とす。而して蒙毅を親近し、位上卿に至り、出づれば則ち参乗し、入れば則ち御前にあり。恬は外事に任じて毅は常に内謀を為す。名づけて忠信と為す。故に諸将相と雖も敢て之と争ふ莫し。
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史記 李斯列伝太史公曰く、「李斯は閭閻を以て諸侯を歴、入りて秦に事へ、因りて瑕釁を以て、以て始皇を輔け、卒に帝業を成す。斯三公と為る、尊用せらると謂ふ可し。斯六藝の帰を知るも、政を明らかにして以て主上の缺を補ふを務めず、爵祿の重きを持し、阿順苟合し、厳威酷刑し、高の邪説を聴き、適を廃して庶を立つ。諸侯已に畔き、斯乃ち諫争せんと欲す、亦た末ならずや。人皆斯を以て忠を極めて五刑を被りて死すと為すも、其の本を察すれば、乃ち俗議と異なる。然らずんば、斯の功且に周・召と列ならん」と。
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史記 蒙恬列伝子嬰進みて諫めて曰く、「臣聞く、故の趙王遷其の良臣李牧を殺して顔聚を用ゐ、燕王喜陰かに荊軻の謀を用ゐて秦の約に倍き、斉王建其の故世の忠臣を殺して后勝の議を用ゐたり、と。此の三君なる者は、皆各々古を変ずるを以て其の国を失ひて殃其の身に及ぶ。今蒙氏は、秦の大臣謀士なり、而して主一旦にして之を棄て去らんと欲す、臣竊かに以て不可と為す。臣聞く、軽慮なる者は以て国を治む可からず、独智なる者は以て君を存す可からず、と。忠臣を誅殺して節行無きの人を立つるは、是れ内に群臣をして相ひ信ぜざらしめ、外に鬬士の意をして離れしむるなり、臣竊かに以て不可と為す」と。胡亥聴かず。
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『塩鉄論』地廣篇文學曰く、秦の兵を用うるは、極まれりと謂うべし、蒙恬の境を斥くは、遠しと謂うべし。今蒙恬の塞を踰え、郡縣を寇虜の地に立つ、地いよいよ遠くして民ますます勞す。朔方以西、長安以北、新郡の功、外城の費は、勝げて計うべからず。特り是のみに非ざるなり、司馬・唐蒙は西南夷の塗を鑿ち、巴・蜀は邛・筰に弊る、橫海は南夷を征し、樓船は東越を戍る、荊・楚は甌・駱に罷る、左將は朝鮮を伐ち、臨屯を開く、燕・齊は穢貉に困しむ、張騫は殊遠に通じ、無用を納る、府庫の藏は、外國に流る、特り鬥辟の費、造陽の役のみに非ざるなり。此に由りて之を觀るに、人主の用心に非ず、好事の臣の縣官の為に計を過てるなり。
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