史記 / 蒙恬列伝
使者曰、臣受詔行法於將軍、不敢以將軍言聞於上也。蒙恬喟然太息曰、我何罪於天、無過而死乎。良久、徐曰、恬罪固當死矣。起臨洮屬之遼東、城塹萬餘里、此其中不能無絕地脈哉。此乃恬之罪也。乃吞藥自殺。
新字:使者曰、臣受詔行法於将軍、不敢以将軍言聞於上也。蒙恬喟然太息曰、我何罪於天、無過而死乎。良久、徐曰、恬罪固当死矣。起臨洮属之遼東、城塹万余里、此其中不能無絶地脈哉。此乃恬之罪也。乃呑薬自殺。
書き下し
使者曰く、「臣詔を受けて将軍に法を行ふ、敢て将軍の言を以て上に聞せざるなり」と。蒙恬喟然として太息して曰く、「我何の罪か天に、過ち無くして死するか」と。良や久しくして、徐ろに曰く、「恬の罪固より当に死すべし。臨洮に起こして之を遼東に属け、城塹万余里、此の其の中地脈を絶つこと無き能はざらんや。此れ乃ち恬の罪なり」と。乃ち薬を吞みて自殺す。
現代語訳
使者は言った。「私は詔を受けて将軍に法を執行するのです。将軍のお言葉を主上にお伝えするわけにはまいりません」。蒙恬は深くため息をついて言った。「私に天に対する何の罪があって、過ちもないのに死ぬのか」。しばらくして、ゆっくりとこう言った。「いや、蒙恬の罪はもとより死に値する。臨洮に起こして遼東までつなぎ、城壁と塹壕を一万余里も築いた。その途中で、大地の脈を断ち切らなかったはずがない。これこそ蒙恬の罪だ」。そして毒薬を飲んで自殺した。
解説
「無実の死を前に、天を恨むのではなく、自らの行いの中に罪を見出そうとする」——蒙恬の内省と、その最期を描いた一段です。二世からの死の命令を伝える使者は、蒙恬の正論の諫言を聞いても、「私は法を執行するよう命じられただけで、将軍のお言葉を陛下に取り次ぐわけにはいきません」と、取り合いませんでした。蒙恬は、深くため息をついて嘆きます。「私は天に対して何の罪を犯したというのか。何の過ちもないのに、なぜ死なねばならないのか」と。無実の死への、当然の慟哭です。しかし、しばらく沈黙した後、蒙恬はゆっくりと、考えを改めて言いました。「いや、私には確かに死に値する罪がある。臨洮から遼東まで、一万里余りにも及ぶ長城と堀を築いた。その工事の途中で、大地の気脈(地脈)を断ち切ってしまったに違いない。これこそが、私の罪なのだ」と。そして毒を飲んで自ら命を絶ちました。この蒙恬の最後の自省は、二つの読み方ができます。一つは、無実であっても、天が自分を罰するには何か理由があるはずだと、自らの行いを厳しく省みる、忠臣の潔く高潔な態度。もう一つは(次段の司馬遷の評が指摘するように)、本当の罪(民を苦しめる大工事に反対せず加担したこと)から目をそらし、「地脈を絶った」という迷信的な理由に逃げてしまった、という限界。ここに、深い問いがあります。第一に、理不尽な仕打ちや不運に対して、天や他人を恨むのではなく、自らの行いを省みようとする姿勢の尊さ。蒙恬は、無実の死を前にしても、最終的には天を恨まず、自分の中に理由を探した。この自省の姿勢自体は、高潔です。第二に、しかし、その自省が「正しい対象」に向いているか、という問い。蒙恬が見出した罪は「地脈を絶った」という迷信的なもので、本当に省みるべきこと(大工事で民を疲弊させたことへの責任、それに諫言しなかったこと)ではなかった。自省は大切だが、的外れな自責は、本質的な反省を妨げることもある。組織や人生で、理不尽な事態に天や他人を恨むのではなく自らを省みる姿勢を持ちつつ、その反省が本当に向き合うべき本質的な問題に向いているかを見極めること——蒙恬の最期の自省は、自省の尊さと、その難しさの両面を示しています。
この章句が説くこと
蒙恬の最期無実の死天を恨まず自省地脈を絶つ自省の尊さと限界本質から目をそらす
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史記 蒙恬列伝太史公曰く、「吾北辺に適き、直道より帰り、行きて蒙恬の秦の為に筑く所の長城・亭障を観るに、山を塹り谷を堙め、直道を通じ、固より百姓の力を軽んずるなり。夫れ秦の初め諸侯を滅ぼすや、天下の心未だ定まらず、痍傷者未だ瘳えず、而して恬名将為り、此の時を以て彊諫し、百姓の急を振ひ、老を養ひ孤を存し、衆庶の和を修むるを務めずして、意に阿りて功を興す、此れ其の兄弟の誅に遇ふ、亦た宜ならずや。何ぞ乃ち地脈を罪とするや」と。
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史記 蒙恬列伝蒙恬に令して曰く、「君の過ち多し。而して卿の弟毅大罪有り。法内史に及ぶ」と。恬曰く、「吾が先人より、子孫に及ぶまで、功信を秦に積むこと三世なり。今臣兵三十余万を将ゐ、身は囚系せらると雖も、其の勢以て倍畔するに足る。然れども自ら必ず死するを知りて義を守る者は、敢て先人の教へを辱めず、以て先主を忘れざればなり。昔周の成王初めて立ち、未だ襁緥を離れず、周公旦王を負ひて以て朝し、卒に天下を定む。成王病有りて甚だ殆きに及び、公旦自ら其の爪を揃りて以て河に沈め、曰く、『王未だ識有らず、是れ旦事を執る。罪殃有らば、旦其の不祥を受けん』と。乃ち書して之を記府に蔵す。信と謂ふべし。王の能く国を治むるに及び、賊臣有りて言ふ、『周公旦乱を為さんと欲すること久し。王若し備へずんば、必ず大事有らん』と。王乃ち大いに怒り、周公旦走りて楚に奔る。成王記府を観て、周公旦の沈書を得、乃ち流涕して曰く、『孰か周公旦の乱を為さんと欲すと謂ふや』と。之を言ふ者を殺して周公旦を反す。故に周書に曰く『必ず参にして之を伍にせよ』と。今恬の宗、世々二心無し。而して事卒に此の如し。是れ必ず孽臣の逆乱、内陵の道なり。夫れ成王は失ひて復た振るひ、則ち卒に昌ゆ。桀は関竜逢を殺し、紂は王子比干を殺して悔いず、身死して則ち国亡ぶ。臣故に曰く、過ちは振ふべく諫めは覚るべしと。参伍を察するは、上聖の法なり。凡そ臣の言は、以て咎を免れんことを求むるに非ず、将に以て諫めて死せんとす。願はくは陛下万民の為に道に従ふを思へ」と。
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史記 蒙恬列伝蒙恬は、其の先は斉人なり。恬の大父蒙驁、斉より秦の昭王に事へ、官上卿に至る。秦の荘襄王の元年、蒙驁秦の将と為り、韓を伐ち、成皋・滎陽を取り、三川郡を作置す。二年、蒙驁趙を攻め、三十七城を取る。始皇の三年、蒙驁韓を攻め、十三城を取る。五年、蒙驁魏を攻め、二十城を取り、東郡を作置す。始皇の七年、蒙驁卒す。驁の子を武と曰ひ、武の子を恬と曰ふ。恬嘗て獄を書し文学を典る。始皇の二十三年、蒙武秦の裨将軍と為り、王翦と楚を攻め、大いに之を破り、項燕を殺す。二十四年、蒙武楚を攻め、楚王を虜にす。蒙恬の弟は毅なり。始皇の二十六年、蒙恬家世に因りて秦の将と為るを得、斉を攻め、大いに之を破り、拝して内史と為る。秦已に天下を并せ、乃ち蒙恬をして三十万の衆を将ゐて北のかた戎狄を逐ひ、河南を収めしむ。長城を筑き、地形に因り、用て険塞を制し、臨洮に起こり、遼東に至る。延袤万余里。是に於て河を渡り、陽山に拠り、逶蛇して北す。師を外に暴すこと十余年、上郡に居る。是の時蒙恬の威匈奴を振るはす。始皇甚だ蒙氏を尊寵し、信任して之を賢とす。而して蒙毅を親近し、位上卿に至り、出づれば則ち参乗し、入れば則ち御前にあり。恬は外事に任じて毅は常に内謀を為す。名づけて忠信と為す。故に諸将相と雖も敢て之と争ふ莫し。
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史記 李斯列伝高乃ち丞相斯に謂ひて曰く、「上崩じ、長子に書を賜ひ、喪と咸陽に会して立ちて嗣と為らしむ。書未だ行らず。今上崩じ、未だ知る者有らざるなり。長子に賜ふ所の書及び符璽は皆胡亥の所に在り。太子を定むるは君侯と高との口に在るのみ。事将に何如せん」と。斯曰く、「安くんぞ亡国の言を得たる。此れ人臣の当に議すべき所に非ざるなり」と。高曰く、「君侯自ら料るに、能は蒙恬と孰れぞ。功の高きは蒙恬と孰れぞ。謀遠くして失はざるは蒙恬と孰れぞ。怨み天下に無きは蒙恬と孰れぞ。長子の旧くして之を信ずるは蒙恬と孰れぞ」と。斯曰く、「此の五者は皆蒙恬に及ばず。而るに君之を責むること何ぞ深きや」と。高曰く、「高は固より内官の廝役なり。幸ひに刀筆の文を以て秦宮に進み入るを得、事を管すること二十余年、未だ嘗て秦の丞相功臣を免罷して封の二世に及ぶ者有るを見ざるなり。卒に皆誅を以て亡ぶ。皇帝の二十余子は、皆君の知る所なり。長子は剛毅にして武勇、人を信じて士を奮はす。即位せば必ず蒙恬を用ひて丞相と為さん。君侯終に通侯の印を懐きて郷里に帰らざること、
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