史記 / 廉頗藺相如列伝
相如至,謂秦王曰:「秦自繆公以來二十餘君,未嘗有堅明約束者也。臣誠恐見欺於王而負趙,故令人持璧歸,間至趙矣。且秦彊而趙弱,大王遣一介之使至趙,趙立奉璧來。今以秦之彊而先割十五都予趙,趙豈敢留璧而得罪於大王乎?臣知欺大王之罪當誅,臣請就湯鑊,唯大王與群臣孰計議之。」秦王與群臣相視而嘻。左右或欲引相如去,秦王因曰:「今殺相如,終不能得璧也,而絶秦趙之驩,不如因而厚遇之,使歸趙,趙王豈以一璧之故欺秦邪!」卒廷見相如,畢禮而歸之。相如既歸,
新字:相如至,謂秦王曰:「秦自繆公以来二十余君,未嘗有堅明約束者也。臣誠恐見欺於王而負趙,故令人持璧帰,間至趙矣。且秦彊而趙弱,大王遣一介之使至趙,趙立奉璧来。今以秦之彊而先割十五都予趙,趙豈敢留璧而得罪於大王乎?臣知欺大王之罪当誅,臣請就湯鑊,唯大王与群臣孰計議之。」秦王与群臣相視而嘻。左右或欲引相如去,秦王因曰:「今殺相如,終不能得璧也,而絶秦趙之驩,不如因而厚遇之,使帰趙,趙王豈以一璧之故欺秦邪!」卒廷見相如,畢礼而帰之。相如既帰,
書き下し
相如至り、秦王に謂ひて曰く、「秦は繆公より以来二十余君、未だ嘗て約束を堅明にする者有らざるなり。臣誠に王に欺かれて趙に負かんことを恐る、故に人をして璧を持して帰らしむ、間に趙に至れり。且つ秦は彊くして趙は弱し、大王一介の使ひを遣はして趙に至らば、趙立ちどころに璧を奉じて来たらん。今、秦の彊きを以て先づ十五都を割きて趙に予へば、趙豈に敢へて璧を留めて罪を大王に得んや。臣は大王を欺くの罪の誅に当たるを知る、臣請ふ湯鑊に就かん、唯だ大王と群臣とこれを孰計議せよ」と。秦王と群臣と相視て嘻す。左右或いは相如を引きて去らんと欲す、秦王因りて曰く、「今相如を殺すとも、終に璧を得る能はざるなり、而して秦趙の驩を絶たん。因りてこれを厚遇し、趙に帰らしむるに如かず、趙王豈に一璧の故を以て秦を欺かんや」と。卒に廷に相如を見、礼を畢へてこれを帰す。相如既に帰り、
現代語訳
相如はやって来て、秦王に言った。「秦は繆公以来二十余代の君主のうち、約束を固く守った者は一人もいない。私はまことに王に欺かれて趙に背く結果になることを恐れた。だから人に璧を持たせて帰らせ、もう間道を通って趙に着いている。それに秦は強く趙は弱い。大王が一人の使者を趙に遣わせば、趙はすぐに璧を捧げて持って来るだろう。いま強い秦が先に十五の都邑を割いて趙に与えれば、趙がどうして璧を手元にとどめて大王に罪を得るようなまねをしようか。私は大王を欺いた罪で死刑に当たることはわかっている。どうか釜ゆでの刑に就かせてほしい。ただ大王と群臣とで、よくよくお考えいただきたい。」秦王と群臣は顔を見合わせて、あきれたように声を上げた。側近の中には相如を引き立てて行こうとする者もいたが、秦王は言った。「いま相如を殺しても、結局璧は手に入らず、秦と趙の友好を絶つことになるだけだ。それよりこの機に手厚くもてなして趙に帰らせる方がよい。趙王が璧一つのために秦を欺くことがあろうか。」こうして結局、宮廷で正式に相如を引見し、儀礼を終えて帰国させた。相如が帰国すると、
解説

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