史記 / 穰侯列伝
太史公曰、穰侯、昭王親舅也。而秦所以東益地、弱諸侯、嘗稱帝於天下、天下皆西鄉稽首者、穰侯之功也。及其貴極富溢、一夫開說、身折勢奪而以憂死、況於羈旅之臣乎。
新字:太史公曰、穰侯、昭王親舅也。而秦所以東益地、弱諸侯、嘗称帝於天下、天下皆西郷稽首者、穰侯之功也。及其貴極富溢、一夫開説、身折勢奪而以憂死、況於羈旅之臣乎。
書き下し
太史公曰く、「穰侯は、昭王の親舅なり。而して秦の東のかた地を益し、諸侯を弱くし、嘗て天下に帝を称し、天下皆西郷して稽首する所以の者は、穰侯の功なり。其の貴極まり富溢るるに及び、一夫説を開き、身折れ勢ひ奪はれて以て憂へ死するに、況んや羈旅の臣に於いてをや」と。
現代語訳
太史公は言う。「穰侯は昭王の実の伯父である。秦が東方で領土を広げ、諸侯を弱め、かつて天下に帝を称し、天下がみな西を向いて頭を垂れたのは、穰侯の功であった。しかしその地位が極まり富があふれるに至ると、一人の男が説を唱えただけで、身は折れ勢いは奪われ、憂いのうちに死んだ。まして、よそから来た臣ならなおさらではないか」。
解説
「絶頂を極めた者ほど、転落は速く激しい」という盈満の理を、司馬遷が端的に総括した結びの一段です。司馬遷はまず、穰侯(魏冉)の功績を正当に評価します。秦が東方に領土を広げ、諸侯を弱体化させ、一時は天下に帝を称するほどの強国になれたのは、王の伯父である穰侯の力によるものだ、と。功臣としての貢献は疑いようがありません。しかし司馬遷はこう続けます。『其の貴極まり富溢るるに及び、一夫説を開き、身折れ勢ひ奪はれて以て憂へ死す(その地位が極まり富があふれるほどになると、たった一人(范雎)が説を持ち出しただけで、身は砕かれ権勢を奪われ、憂いのうちに死んだ)』。これほどの功臣・王の肉親でさえ、権勢が満ち過ぎた途端、一人の進言で一気に失脚した。そして司馬遷は痛烈に付け加えます——『況んや羈旅の臣に於いてをや(まして、血縁の後ろ盾もない、他国から来た寄る辺ない臣下なら、なおさら(失脚しやすい)だ)』。ここには、二つの普遍的な教訓があります。第一に、「盈満は欠くる(満ちれば必ず欠ける)」という理。権勢・富・成功が極まった状態は、実は最も危険な状態であり、そこからの転落は速く激しい。絶頂にあるときこそ、謙抑と自制が要る。第二に、後ろ盾の相対性。王の伯父という強力な後ろ盾を持つ穰侯ですら失脚したのだから、それより弱い立場の者は、なおさら地位の危うさを自覚すべきだ、と。組織やキャリアの教訓として、成功や権勢の絶頂にあるときこそ、①満ち過ぎの危険を意識し、②力を抑え、③自分の地位が実は脆い基盤の上にあることを忘れない——その謙虚さが、長く身を保つ知恵だと、司馬遷は説きます。
この章句が説くこと
太史公評穰侯盈満は欠くる絶頂からの転落貴極富溢謙抑
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史記 范雎蔡沢列伝穣侯・華陽君は、昭王の母宣太后の弟なり。而して涇陽君・高陵君は皆昭王の同母弟なり。穣侯相たり、三人の者更々将たり、封邑有り、太后の故を以て、私家の富は王室より重し。穣侯の秦の将と為るに及び、且に韓・魏を越えて斉の綱寿を伐ち、以てその陶の封を広めんと欲す。范睢乃ち上書して曰く、臣聞く、明主の政を立つるや、功有る者は賞せざるを得ず、能有る者は官せざるを得ず、労大なる者はその禄厚く、功多き者はその爵尊く、能く衆を治むる者はその官大なり。故に無能の者は敢へて職に当たらず、能有る者もまた蔽隠するを得ず。臣の言を以て可と為さば、願はくは行ひて益々その道を利せよ。臣の言を以て不可と為さば、久しく臣を留むるは為す無きなり。語に曰く「庸主は愛する所を賞して悪む所を罰す。明主は則ち然らず、賞は必ず功有るに加へ、刑は必ず罪有るに断ず」と。今、臣の胸は以て椹質に当たるに足らず、要は以て斧鉞を待つに足らず、豈に敢へて疑事を以て王に嘗試せんや。臣を以て賤人と為して軽辱すと雖も、独り臣を任ずる者の王に反覆無きを重んぜざるか。且つ臣聞く、周に砥砨有り、宋に結緑有り、梁に県藜有り、楚に和樸有り。此の四宝は、土の生ずる所、良工の失ふ所なり、而して天下の名器と為る。然らば則ち聖王の棄つる所の者は、独り以て国家を厚くするに足らざらんや。臣聞く、善く家を厚くする者はこれを国に取り、善く国を厚くする者はこれを諸侯に取る。天下に明主有らば則ち諸侯擅に厚くするを得ざるは、何ぞや。その栄を割くが為なり。良医は病人の死生を知り、而して聖主は成敗の事に明らかなり。利あらば則ちこれを行ひ、害あらば則ちこれを捨て、疑はしければ則ち少しくこれを嘗む。舜・禹また生まるると雖も、改むる能はざるのみ。語の至れる者は、臣敢へてこれを書に載せず、その浅き者はまた聴くに足らざるなり。
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