史記 / 樗里子甘茂列伝
太史公曰、樗里子以骨肉重、固其理、而秦人稱其智、故頗采焉。甘茂起下蔡閭閻、顯名諸侯、重彊齊楚。甘羅年少、然出一奇計、聲稱後世。雖非篤行之君子、然亦戰國之策士也。方秦之彊時、天下尤趨謀詐哉。
新字:太史公曰、樗里子以骨肉重、固其理、而秦人称其智、故頗采焉。甘茂起下蔡閭閻、顕名諸侯、重彊斉楚。甘羅年少、然出一奇計、声称後世。雖非篤行之君子、然亦戦国之策士也。方秦之彊時、天下尤趨謀詐哉。
書き下し
太史公曰く、「樗里子は骨肉を以て重んぜらる、固より其の理なり、而して秦人其の智を称す、故に頗る采る。甘茂は下蔡の閭閻より起こり、名を諸侯に顕はし、斉楚を重彊す。甘羅は年少なり、然れども一奇計を出だし、声後世に称せらる。篤行の君子に非ずと雖も、然れども亦た戦国の策士なり。秦の彊き時に方り、天下尤も謀詐に趨るかな」と。
現代語訳
太史公は言う。「樗里子は血縁によって重んじられた。それはもとより当然のことだが、秦の人々はその智恵を称えたので、ここにかなり取り上げた。甘茂は下蔡の市井から身を起こし、諸侯の間に名を挙げ、斉と楚を強大にした。甘羅は年少でありながら、一つの奇策を出して、その名声は後世まで称えられている。行いの篤い君子とはいえないが、いずれも戦国の策士である。秦が強かった時代には、天下はことのほか謀略と欺きに走ったものだ」。
解説
三人の人物(樗里子・甘茂・甘羅)を総括しつつ、「時代が人材の質を規定する」という洞察を示した、司馬遷の結びの一段です。司馬遷はそれぞれを公平に評します。樗里子は王族という血縁で重んじられたが、その知恵は秦人が称えるほど本物だった。甘茂は庶民の出(下蔡の路地裏)から身を起こし、諸侯に名を知られる実力者になった。甘羅は年少ながら見事な奇計を放ち、後世に名を残した。そして司馬遷はこう総括します。『篤行の君子に非ずと雖も、然れども亦た戦国の策士なり(彼らは徳を篤く実践する君子ではなかったが、戦国という時代の優れた策士ではあった)』。ここに、司馬遷の複眼的な人物評価があります。彼らを、道徳的な理想像(君子)としては手放しに称賛しない。しかし、その知略・実力・時代に適応した才能は正当に認める。能力と徳を切り分けつつ、両方を見て評価するのです。さらに核心は最後の一言——『秦の彊き時に方り、天下尤も謀詐に趨るかな(秦が強大化する時代には、天下はとりわけ謀略と欺瞞に走ったものだ)』。司馬遷は、彼らが謀略の士であったことを、個人の資質だけでなく「時代の産物」として捉えます。秦が力で天下を制しようとする弱肉強食の時代が、人々を権謀術数へと駆り立てた、と。組織や社会の教訓として、二つの視点が得られます。第一に、人を評価するとき、道徳的理想と実務的能力を分けて、両面から公平に見ること。第二に、人の行動や価値観は、その人が置かれた「時代・環境」に大きく規定されるということ。個人を責める前に、その人を謀詐へ走らせる環境(過度な競争、成果至上主義)がないかを問う視点も必要です。人と時代の相互作用を見据える、司馬遷の深い歴史眼が光ります。
この章句が説くこと
太史公評樗里子甘茂甘羅能力と徳時代が人を規定する謀詐に趨る複眼的評価
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