史記 / 樗里子甘茂列伝
甘羅者、甘茂孫也。茂既死後、甘羅年十二、事秦相文信侯呂不韋。行有日、甘羅謂文信侯曰、借臣車五乘、請為張唐先報趙。始皇召見、使甘羅於趙。趙襄王郊迎甘羅。甘羅說趙王曰、王聞燕太子丹入質秦歟。曰、聞之。曰、聞張唐相燕歟。曰、聞之。燕太子丹入秦者、燕不欺秦也。張唐相燕者、秦不欺燕也。燕秦不相欺者、伐趙、危矣。燕秦不相欺無異故、欲攻趙而廣河閒。王不如齎臣五城以廣河閒、請歸燕太子、與彊趙攻弱燕。趙王立自割五城以廣河閒。秦歸燕太子。趙攻燕、得上谷三十城、令秦有十一。甘羅還報、秦乃封甘羅以為上卿。
新字:甘羅者、甘茂孫也。茂既死後、甘羅年十二、事秦相文信侯呂不韋。行有日、甘羅謂文信侯曰、借臣車五乗、請為張唐先報趙。始皇召見、使甘羅於趙。趙襄王郊迎甘羅。甘羅説趙王曰、王聞燕太子丹入質秦歟。曰、聞之。曰、聞張唐相燕歟。曰、聞之。燕太子丹入秦者、燕不欺秦也。張唐相燕者、秦不欺燕也。燕秦不相欺者、伐趙、危矣。燕秦不相欺無異故、欲攻趙而広河閒。王不如齎臣五城以広河閒、請歸燕太子、与彊趙攻弱燕。趙王立自割五城以広河閒。秦歸燕太子。趙攻燕、得上谷三十城、令秦有十一。甘羅還報、秦乃封甘羅以為上卿。
書き下し
甘羅は、甘茂の孫なり。茂既に死するの後、甘羅年十二、秦の相文信侯呂不韋に事ふ。行くこと日有りて、甘羅文信侯に謂ひて曰く、「臣に車五乗を借せ、請ふ張唐の為に先づ趙に報ぜん」と。始皇召見し、甘羅を趙に使はす。趙の襄王郊迎す。甘羅趙王に説きて曰く、「王燕の太子丹の秦に入質するを聞くか」と。曰く、「之を聞く」と。「張唐の燕に相たるを聞くか」と。曰く、「之を聞く」と。「燕の太子丹の秦に入るは、燕の秦を欺かざるなり。張唐の燕に相たるは、秦の燕を欺かざるなり。燕秦相ひ欺かざれば、趙を伐つこと危し。燕秦相ひ欺かざるに異故無く、趙を攻めて河間を広めんと欲すればなり。王臣に五城を齎して以て河間を広め、請ふ燕の太子を帰し、彊趙と弱燕を攻むるに如かず」と。趙王立ちどころに自ら五城を割きて以て河間を広む。秦燕の太子を帰す。趙燕を攻め、上谷三十城を得、秦をして十一を有たしむ。甘羅還り報じ、秦乃ち甘羅を封じて以て上卿と為す。
現代語訳
年齢や経験ではなく「論理の切れ味」で大人を動かした——わずか十二歳の少年・甘羅が国家間の外交を成功させた、驚異的な一段です。甘羅は名臣・甘茂の孫で、十二歳にして秦の宰相・呂不韋に仕えていました。彼は、行きたがらない使者(張唐)を説得して動かした上で、自ら趙への使者を買って出ます。趙王への説得は、鮮やかな論理の連鎖でした。「燕が太子を秦に人質に出し、秦の張唐が燕の宰相になる——これは秦と燕が手を結んだ証拠。両国が結べば、次に攻められるのは趙です」とまず危機を示す。そして解決策を提示します。「趙が五つの城を秦に割譲すれば、秦は燕の太子を返し、趙は強い秦と組んで弱い燕を攻められる。燕から取った領土は五城よりずっと大きい」と。趙王はその場で五城を差し出し、その後燕を攻めて三十もの城を得ました。趙も秦も甘羅も、全員が得をする構図を、十二歳が設計したのです。ここに二つの教訓があります。第一に、人を動かすのは年齢・肩書・経験ではなく、論理の明晰さと利害の的確な分析だということ。若さや経験不足を理由に軽んじられがちな人でも、筋の通った論理と相手の利益を示せれば、大の大人(一国の王)すら動かせる。第二に、優れた提案は「相手にとっての利益」を明確に示すこと。甘羅は趙王に「五城を失う」という損だけでなく、「それ以上の領土が手に入る」という利を具体的に見せた。組織や交渉でも、若手や経験の浅い人でも、論理と相手の利害を突き詰めれば、立場を超えて人を動かせる。年齢や肩書に臆せず、中身で勝負する——甘羅の若き才は、その可能性を鮮烈に示します。