史記 / 樗里子甘茂列伝
行有日,甘羅謂文信侯曰:「借臣車五乘,請為張唐先報趙。」文信侯乃入言之於始皇曰:「昔甘茂之孫甘羅,年少耳,然名家之子孫,諸侯皆聞之。今者張唐欲稱疾不肯行,甘羅說而行之。今願先報趙,請許遣之。」始皇召見,使甘羅於趙。趙襄王郊迎甘羅。甘羅說趙王曰:「王聞燕太子丹入質秦歟?」曰:「聞之。」曰:「聞張唐相燕歟?」曰:「聞之。」「燕太子丹入秦者,燕不欺秦也。張唐相燕者,秦不欺燕也。燕、秦不相欺者,伐趙,危矣。燕、秦不相欺無異故,欲攻趙而廣河閒。王不如齎臣五城以廣河閒,請歸燕太子,與彊趙攻弱燕。」趙王立自割五城以廣河閒。秦歸燕太子。趙攻燕,得上谷三十城,令秦有十一。甘羅還報秦,乃封甘羅以為上卿,復以始甘茂田宅賜之。
新字:行有日,甘羅謂文信侯曰:「借臣車五乗,請為張唐先報趙。」文信侯乃入言之於始皇曰:「昔甘茂之孫甘羅,年少耳,然名家之子孫,諸侯皆聞之。今者張唐欲称疾不肯行,甘羅説而行之。今願先報趙,請許遣之。」始皇召見,使甘羅於趙。趙襄王郊迎甘羅。甘羅説趙王曰:「王聞燕太子丹入質秦歟?」曰:「聞之。」曰:「聞張唐相燕歟?」曰:「聞之。」「燕太子丹入秦者,燕不欺秦也。張唐相燕者,秦不欺燕也。燕、秦不相欺者,伐趙,危矣。燕、秦不相欺無異故,欲攻趙而広河閒。王不如齎臣五城以広河閒,請帰燕太子,与彊趙攻弱燕。」趙王立自割五城以広河閒。秦帰燕太子。趙攻燕,得上谷三十城,令秦有十一。甘羅還報秦,乃封甘羅以為上卿,復以始甘茂田宅賜之。
書き下し
行くに日有り、甘羅、文信侯に謂ひて曰く、「臣に車五乗を借せ、請ふ張唐の為に先づ趙に報ぜん」と。文信侯乃ち入りてこれを始皇に言ひて曰く、「昔の甘茂の孫甘羅は、年少きのみ、然れども名家の子孫にして、諸侯皆聞く。今者、張唐疾と称して行くことを肯んぜんとせざりしに、甘羅説きてこれを行かしむ。今、願はくは先づ趙に報ぜん、請ふ許してこれを遣はせ」と。始皇召見し、甘羅をして趙に使ひせしむ。趙の襄王、甘羅を郊迎す。甘羅、趙王に説きて曰く、「王、燕の太子丹の秦に入質せるを聞けるか」と。曰く、「これを聞く」と。曰く、「張唐の燕に相たるを聞けるか」と。曰く、「これを聞く」と。「燕の太子丹の秦に入るは、燕の秦を欺かざるなり。張唐の燕に相たるは、秦の燕を欺かざるなり。燕・秦相欺かざるは、趙を伐たんとするなり、危ふし。燕・秦相欺かざるは異故無し、趙を攻めて河閒を広めんと欲するなり。王、臣に五城を齎して以て河閒を広むるに如かず。請ふ燕の太子を帰し、彊趙と与に弱燕を攻めしめん」と。趙王立ちどころに自ら五城を割きて以て河閒を広む。秦、燕の太子を帰す。趙、燕を攻め、上谷の三十城を得、秦をして十の一を有たしむ。甘羅還りて秦に報ず。乃ち甘羅を封じて以て上卿と為し、また始めの甘茂の田宅を以てこれに賜ふ。
現代語訳
出発の日が決まると、甘羅は文信侯に言った。「私に車を五台貸してください。張唐のために先に趙へ知らせに行きたいのだ。」文信侯はそこで宮中に入り、始皇(秦王政)に申し上げた。「以前の甘茂の孫の甘羅は、まだ年少ではありますが、名家の子孫で、諸侯にもみな名が知られている。先ごろ張唐が病気と称して行こうとしなかったのを、甘羅が説得して行かせました。いま甘羅は先に趙へ知らせに行きたいと申しておる。どうか許して遣わしてください。」始皇は甘羅を召して会い、趙への使者とした。趙の襄王は都の郊外まで甘羅を出迎えた。甘羅は趙王に説いた。「王は燕の太子丹が秦に人質として入ったことをお聞きですか。」王は言った。「聞いている。」「張唐が燕の宰相になることをお聞きですか。」王は言った。「聞いている。」甘羅は言った。「燕の太子丹が秦に入ったのは、燕が秦を欺かないという証だ。張唐が燕の宰相になるのは、秦が燕を欺かないという証だ。燕と秦が互いに欺かないのは、趙を討とうとしているからで、趙は危ういのだ。燕と秦が互いに欺かない理由はほかでもなく、趙を攻めて河間の地を広げたいからだ。王は私に五つの城を差し出して秦の河間の地を広げさせるのが一番だ。そうすれば私は燕の太子を国へ帰させ、強い趙が弱い燕を攻めるのを(秦は黙認)させましょう。」趙王はただちに自ら五つの城を割いて秦の河間の地を広げた。秦は燕の太子を帰した。趙は燕を攻めて上谷の三十の城を得、そのうち十分の一を秦に与えた。甘羅は帰って秦に報告した。秦はそこで甘羅を上卿に封じ、さらにもとの甘茂の田地と屋敷を彼に賜った。
解説
この章句が説くこと
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史記 鄭世家繆氏は、霊公を殺せし子公の族家なり。去疾曰く、「必ず繆氏を去らば、我将に之を去らんとす」と。乃ち止む。皆以て大夫と為す。襄公元年、楚、鄭の宋の賂を受けて華元を縦すを怒り、鄭を伐つ。鄭楚に背き、晋と親しむ。五年、楚復た鄭を伐ち、晋来りて之を救ふ。六年、子家卒す。国人復た其の族を逐ふ。其の霊公を弑せしを以てなり。七年、鄭、晋と鄢陵に盟ふ。八年、楚の荘王、鄭の晋と盟ふを以て、来りて伐ち、鄭を囲むこと三月、鄭城を以て楚に降る。楚王皇門より入る。鄭の襄公肉袒して羊を掔きて以て迎へて曰く、「孤辺邑に事ふること能はず、君王をして怒りを懐きて以て獘邑に及ばしむ。孤の罪なり。敢へて惟だ命を是れ聴かざらんや。君王之を江南に遷し、及び以て諸侯に賜ふも、亦惟だ命を是れ聴かん。若し君王、厲・宣王、桓・武公を忘れず、哀れみて其の社稷を絶つに忍びず、不毛の地を錫ひ、復た君王に改め事ふることを得しめば、孤の願ひなり。然れども敢へて望む所に非ざるなり。敢へて腹心を布き、惟だ命を是れ聴かん」と。荘王為に三十里を卻きて後に舎る。楚の群臣曰く、「郢より此に至るまで、士大夫も亦久しく労せり。今国を得て之を捨つ、何如」と。荘王曰く、「伐つ所為の者は、服せざるを伐つなり。今已に服す、尚何をか求めんや」と。卒に去る。晋、楚の鄭を伐つを聞き、兵を発して鄭を救ふ。其の来るや両端を持す、故に遅し。河に至る比、楚の兵已に去る。晋の将率或いは渡らんと欲し、或いは還らんと欲す。卒に河を渡る。荘王聞き、還りて晋を撃つ。鄭反りて楚を助け、大いに晋軍を河上に破る。十年、晋来りて鄭を伐つ。其の晋に反きて楚に親しむを以てなり。十一年、楚の荘王宋を伐つ。宋急を晋に告ぐ。晋の景公兵を発して宋を救はんと欲す。伯宗晋君を諫めて曰く、「天方に楚を開く、未だ伐つべからざるなり」と。乃ち壮士を求めて霍人解揚、字は子虎を得、楚を誆きて、宋をして降る毋からしめんとす。鄭を過る。鄭は楚と親し、乃ち解揚を執へて楚に献ず。
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