史記 / 樗里子甘茂列伝
樗里子者、名疾、秦惠王之弟也、與惠王異母。母、韓女也。樗里子滑稽多智、秦人號曰智囊。秦惠王八年、爵樗里子右更、使將而伐曲沃、盡出其人、取其城。秦惠王卒、太子武王立、逐張儀魏章、而以樗里子甘茂為左右丞相。秦武王卒、昭王立、樗里子又益尊重。
新字:樗里子者、名疾、秦恵王之弟也、与恵王異母。母、韓女也。樗里子滑稽多智、秦人号曰智囊。秦恵王八年、爵樗里子右更、使将而伐曲沃、尽出其人、取其城。秦恵王卒、太子武王立、逐張儀魏章、而以樗里子甘茂為左右丞相。秦武王卒、昭王立、樗里子又益尊重。
書き下し
樗里子は、名は疾、秦の恵王の弟なり、恵王と母を異にす。母は韓の女なり。樗里子滑稽にして多智、秦人号して智囊と曰ふ。秦の恵王八年、樗里子に右更を爵し、将ゐて曲沃を伐たしめ、尽く其の人を出だし、其の城を取る。秦の恵王卒し、太子武王立ち、張儀・魏章を逐ひ、而して樗里子・甘茂を以て左右の丞相と為す。秦の武王卒し、昭王立ち、樗里子又益々尊重せらる。
現代語訳
樗里子は名を疾といい、秦の恵王の弟である。恵王とは母が違い、母は韓の生まれの女であった。樗里子はとんちがきいて智恵が多く、秦の人々は彼を「智恵袋」と呼んだ。秦の恵王八年、樗里子に右更の爵を授け、軍を率いて曲沃を討たせた。彼はその住民をすべて追い出し、城を取った。秦の恵王が死んで太子の武王が立つと、張儀と魏章を追放し、樗里子と甘茂を左右の丞相とした。秦の武王が死んで昭王が立つと、樗里子はますます重んじられた。
解説
人柄の親しみやすさと、知恵を兼ね備えた人物が、政権交代を越えて長く重用される——「智囊(知恵袋)」と呼ばれた樗里子の生涯を紹介する一段です。樗里子は恵王の異母弟という王族でありながら、その地位だけでなく、ユーモアがあって親しみやすく(滑稽)、かつ知恵に富む(多智)人物として、秦の人々から「智囊」と敬称されました。注目すべきは、彼が恵王・武王・昭王という三代の政権交代を経て、一貫して重用され続けた点です。武王が即位したとき、前政権の実力者だった張儀は追放されましたが、樗里子は左右の丞相の一人として残り、次の昭王の代にはますます尊重された。ここに、組織で長く信頼される人物の条件が示されています。第一に、能力(知恵)だけでなく、人に親しまれる人柄(滑稽=ユーモアと柔らかさ)を併せ持つこと。切れ者でも、とっつきにくく敵を作る人物は、政権が変われば真っ先に排除されます。逆に、有能でありながら周囲に愛される人は、トップが変わっても必要とされ続ける。第二に、王族という強い後ろ盾を持ちつつも、実際の知恵で成果を出したこと。地位や血筋だけの人は軽んじられますが、実力を伴えば揺るがない。能力と人柄、そして実績——この三つを兼ね備えることが、変化の激しい環境で長く重んじられる秘訣だと、樗里子の生涯は教えます。
この章句が説くこと
樗里子智囊能力と人柄政権交代を越える信頼ユーモア実力
関連する章句
-
史記 樗里子甘茂列伝太史公曰く、「樗里子は骨肉を以て重んぜらる、固より其の理なり、而して秦人其の智を称す、故に頗る采る。甘茂は下蔡の閭閻より起こり、名を諸侯に顕はし、斉楚を重彊す。甘羅は年少なり、然れども一奇計を出だし、声後世に称せらる。篤行の君子に非ずと雖も、然れども亦た戦国の策士なり。秦の彊き時に方り、天下尤も謀詐に趨るかな」と。
-
戦国策・秦一・張儀之殘樗里疾張儀の樗里疾を殘わんとするや、重んじて之を楚に使いせしむ。因りて楚王をして之が為に相を秦に請わしむ。張子秦王に謂いて曰わく、「樗里疾を重んじて之を使いする者は、將に以て國交を為さんとすればなり。今身楚に在り、楚王因りて之が為に相を秦に請う。臣其の言を聞くに曰わく、『王儀を秦に窮せしめんと欲するか。臣請う王を助けん』と。楚王以て然りと為し、故に為に相を請うなり。今王誠に之を聽かば、彼必ず國を以て楚王に事えん。」秦王大いに怒り、樗里疾出走す。
-
史記 穰侯列伝穰侯魏冉は、秦の昭王の母宣太后の弟なり。其の先は楚人、姓は羋氏。秦の武王卒し、子無く、其の弟を立てて昭王と為す。而して魏冉最も賢、恵王・武王の時より職に任じ事を用ふ。武王卒し、諸弟立つを争ひ、唯だ魏冉のみ力めて能く昭王を立つ。昭王即位し、冉を以て将軍と為し、咸陽を衛らしむ。季君の乱を誅し、武王后を逐ひて之を魏に出だし、昭王の諸兄弟の不善なる者皆之を滅ぼし、威秦国に振ふ。昭王少く、宣太后自ら治め、魏冉を政に任ず。
-
史記 張儀列伝秦の武王元年、群臣日夜張儀を悪みて未だ已まず、而して斉の讓(せめ)又至る。張儀誅せられんことを懼れ、乃ち秦の武王に謂ひて曰く、「儀に愚計有り、願はくは之を効さん。今聞くならく斉王甚だ儀を憎む、儀の在る所、必ず師を興して之を伐たん。故に儀願はくは其の不肖の身を乞ひて梁に之かん、斉必ず師を興して梁を伐たん。梁斉の兵城下に連なりて相ひ去る能はず、王其の間を以て韓を伐ち、三川に入り、天子を挟む、此れ王業なり」と。秦王以て然りと為し、乃ち革車三十乗を具へ、儀を梁に入らしむ。斉果たして師を興して之を伐つ。梁の哀王恐る。張儀曰く、「王患ふる勿かれ、請ふ斉兵を罷めしめん」と。乃ち其の舍人馮喜をして楚に之かしめ、借りて斉に使ひせしめ、斉王に謂ひて曰く、「王甚だ張儀を憎む、然りと雖も、亦た厚しや王の儀を秦に託するや。今儀梁に入り、王果たして之を伐つは、是れ王内に国を罷せしめて外に与国を伐ち、而して儀を秦王に信ぜしむるなり」と。斉王曰く、「善し」と。乃ち兵を解かしむ。張儀魏に相たること一歳、魏に卒す。
-
戦国策・楚王令昭雎之秦重張儀楚王、昭雎をして秦に之きて張儀を重んぜしむ。未だ至らざるに、恵王死す。武王、張儀を逐う。楚王因りて昭雎を収めて以て斉を取らんとす。桓臧、雎の為に楚王に謂いて曰く、「横親の合わざるは、儀、恵王を貴びて雎を善みすればなり。今、恵王死し武王立ちて、儀走り、公孫郝・甘茂貴し。甘茂は魏を善みし、公孫郝は韓を善みす。二人固より雎を善みせず、必ず秦を以て韓・魏に合せん。韓・魏の儀を重んずるは、儀秦を有して雎楚を以てこれを重んずればなり。今、儀秦に困しみて雎楚を収む、韓・魏秦を得んと欲せば、必ず二人の者を善みせん。将に韓・魏を収めて儀を軽んじ楚を伐たんとし、方城必ず危うからん。王は雎を復すに如かず、而して儀を韓・魏に重んぜしめよ。儀、楚の勢に拠り、魏の重きを挟みて、以て秦と争わば、魏秦に合せず、韓も亦従わず、則ち方城患い無からん。」
-
『新序』雜事第二甘茂は下蔡の人なり。西のかた秦に入り、數ミ功有り。武王に至りて以て左丞相と爲し、樗里子を右丞相と爲す。樗里子及び公孫子は、皆な秦の諸公子なり。其の外家は韓なり。數ミ韓を攻む。秦の武王甘茂に謂いて曰く、寡人車を容れて周室に至らんと欲す。其の道は韓の宜陽に乎てす、と。甘茂をして韓を伐ちて宜陽を取り、以て道を通じて周室に至らしめんと欲す。甘茂曰く、請う魏と約して與に韓を伐たん、と。向壽をして行を輔けしむ。甘茂既に魏と約して許さる。甘茂還りて息壤に至り、向壽に謂いて曰く、子歸りて之を王に言え。魏は臣に聽けり。然れども願わくは王伐つ勿かれ、と。向壽歸りて以て王に告ぐ。王甘茂を息壤に迎え、其の故を問う。對えて曰く、宜陽は大縣なり。名は縣と爲すも、其の實は郡なり。今王數險に倍き、千里を行きて之を攻むるは難し、と。