史記 / 蘇秦列伝
「且夫韓、魏之所以重畏秦者,為與秦接境壤界也。兵出而相當,不出十日而戰勝存亡之機決矣。韓、魏戰而勝秦,則兵半折,四境不守;戰而不勝,則國已危亡隨其後。是故韓、魏之所以重與秦戰,而輕為之臣也。今秦之攻齊則不然。倍韓、魏之地,過衞陽晉之道,徑乎亢父之險,車不得方軌,騎不得比行,百人守險,千人不敢過也。秦雖欲深入,則狼顧,恐韓、魏之議其後也。是故恫疑虛猲,驕矜而不敢進,則秦之不能害齊亦明矣。「夫不深料秦之無奈齊何,而欲西面而事之,是羣臣之計過也。今無臣事秦之名而有彊國之實,臣是故願大王少留意計之。」齊王曰:「寡人不敏,僻遠守海,窮道東境之國也,未嘗得聞餘教。今足下以趙王詔詔之,敬以國從。」
新字:「且夫韓、魏之所以重畏秦者,為与秦接境壤界也。兵出而相当,不出十日而戦勝存亡之機決矣。韓、魏戦而勝秦,則兵半折,四境不守;戦而不勝,則国已危亡随其後。是故韓、魏之所以重与秦戦,而軽為之臣也。今秦之攻斉則不然。倍韓、魏之地,過衛陽晋之道,径乎亢父之険,車不得方軌,騎不得比行,百人守険,千人不敢過也。秦雖欲深入,則狼顧,恐韓、魏之議其後也。是故恫疑虚猲,驕矜而不敢進,則秦之不能害斉亦明矣。「夫不深料秦之無奈斉何,而欲西面而事之,是羣臣之計過也。今無臣事秦之名而有彊国之実,臣是故願大王少留意計之。」斉王曰:「寡人不敏,僻遠守海,窮道東境之国也,未嘗得聞余教。今足下以趙王詔詔之,敬以国従。」
書き下し
且つ夫れ韓・魏の重く秦を畏るる所以の者は、秦と境を接し界を壌にするが為なり。兵出でて相当たれば、十日を出でずして戦勝存亡の機決す。韓・魏戦ひて秦に勝たば、則ち兵半ば折れ、四境守られず。戦ひて勝たずんば、則ち国已に危亡其の後に随ふ。是の故に韓・魏の重く秦と戦ひて、軽く之が臣と為る所以なり。今秦の斉を攻むるは則ち然らず。韓・魏の地を倍にし、衛の陽晋の道を過ぎ、亢父の険を径る、車は軌を方ぶるを得ず、騎は比びて行くを得ず、百人険を守れば、千人も敢へて過ぎず。秦深く入らんと欲すと雖も、則ち狼顧し、韓・魏の其の後を議せんことを恐る。是の故に恫疑虚猲し、驕矜して敢へて進まず、則ち秦の斉を害する能はざること亦明らかなり。夫れ深く秦の斉を奈何ともする無きを料らずして、西面して之に事へんと欲す、是れ群臣の計の過ちなり。今秦に臣事するの名無くして彊国の実有り、臣是の故に願はくは大王少しく意を留めて之を計れ」と。斉王曰く、「寡人不敏、僻遠にして海を守り、窮道東境の国なり、未だ嘗て余教を聞くを得ず。今足下趙王の詔を以て之に詔す、敬んで国を以て従はん」と。
現代語訳
(蘇秦は斉王に続けた。)「そもそも韓と魏がひどく秦を恐れるのは、秦と国境を接しているからである。兵を出してぶつかれば、十日もたたないうちに勝敗と存亡の分かれ目が決まってしまう。韓や魏が戦って秦に勝っても、兵の半分を失って四方の国境を守れなくなる。戦って勝てなければ、国の危機と滅亡がすぐその後に続く。だから韓や魏は秦と戦うことを重大に考え、秦の臣下となることを軽く考えるのだ。ところが秦が斉を攻めるとなると、そうはいかない。韓と魏の地を背にし、衛の陽晋の道を通り、亢父(こうほ)の険しい道を抜けなければならない。そこは車が二台並んで通れず、騎馬も並んで進めない所で、百人で険しい場所を守れば、千人でも通り抜けられない。秦は深く攻め入ろうとしても、狼のように後ろを振り返り、韓や魏が背後を突くのを恐れる。だから虚勢を張って脅し、驕り高ぶっても、あえて進んでは来ない。秦が斉を害することができないのは明らかである。秦が斉をどうすることもできないことをよく見極めずに、西を向いて秦に仕えようとするのは、群臣の計略の誤りである。いま、秦に臣従するという汚名を受けずに、強国としての実を保つことができる。だから大王には、少しでもお心を留めてお考えいただきたい。」斉王は言った。「わたしは愚かで、辺地で海を守り、道の行き止まりにある東の果ての国の君主である。これまでほかの教えを聞く機会がなかった。いまあなたが趙王の命令をもって告げてくれた。謹んで国を挙げて従おう。」
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『韓非子』喻老第二十一脣亡ぶれば齒寒し。虞・虢の相救ふは、相德とするに非ざるなり。
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『春秋左氏伝』襄公二十七年 信を以て人を召す叔向曰く、「何ぞ害あらん。匹夫一たび不信を為すも、猶ほ不可なり。單く其の死に斃る。若し諸侯の卿を合して、以て不信を為さば、必ず捷たざらん。言を食む者は病まず。子の患ひに非ざるなり。夫れ信を以て人を召して、僭を以て之を濟さば、必ず之に與する莫からん。安んぞ能く我を害せん。且つ吾宋に因りて以て病を守らば、則ち夫れ能く死を致さん。宋と死を致さば、楚に倍すと雖も可なり。子何をか懼れん。又是に及ばず。曰く、『兵を弭めて以て諸侯を召し、兵を稱げて以て我を害す』と。吾が庸ゐること多し。患ふる所に非ざるなり」と。季武子、叔孫に謂はしむるに公の命を以てして曰く、「邾・滕に視へよ」と。既にして齊人邾を請ひ、宋人滕を請ふ。皆盟に與らず。叔孫曰く、「邾・滕は人の私なり。我は列國なり。何の故に之に視へん。宋・衛は吾が匹なり」と。乃ち盟ふ。故に其の族を書せざるは、命に違ふを言ふなり。晉・楚先を爭ふ。晉人曰く、「晉は固より諸侯の盟主為り。未だ晉に先んずる者有らず」と。楚人曰く、「子晉・楚は匹なりと言ふ。若し晉常に先んぜば、是れ楚弱きなり。
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孟子・萬章章句上萬章問いて曰く、「或ひと曰く、『百里奚は自ら秦の牲を養う者に五羊の皮に鬻ぎ、牛を食いて、以て秦の繆公に要む』と。信なるか。」孟子曰く、「否、然らず。事を好む者は之を為すなり。百里奚は虞の人なり。晉人、垂棘の璧と屈Iの乘とを以て、道を虞に假りて以て虢を伐たんとす。宮之奇諫めて、百里奚諫めず。知虞公の諫む可からざるを知りて去り、秦に之く。年已に七十なり。曾ち牛を食うを以て、秦の穆公に干むるの汙為るを知らざるや、智と謂う可けんや。諫む可からずして諫めざるや、不智と謂う可けんや。虞公の將に亡びんとするを知りて先づ之を去るや、不智と謂う可けんや。時に秦に舉げられ、繆公の與に行う有る可きを知るや、之に相たるは、不智と謂う可けんや。秦に相として其の君を天下に顯わし、後世に傳う可きは、不賢にして之を能くせんや。自ら鬻ぎて以て其の君を成すは、鄉黨の自ら好する者も為さず。而るを賢者にして之を為すと謂わんや。」
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『智囊』威克・張詠・柳仲途張詠、未だ第せざる時、嘗て蕩陰に遊ぶ。県令は餽るに束帛と万銭を以てす。詠は即ち之を負いて帰る。或るひと謂う、「此れより去らば夜に遇わん。坡沢は深奥にして、人煙は疏闊なり。徒伴の偕に行くを俟つべし」と。詠曰く、「秋暮れぬ。親は老いて未だ衣を授けず」と。但だ一短剣を捽みて去る。行くこと三十余里、止だ一孤店あり、唯だ一翁と二子のみ。夜始めて分かち、其の子は呼びて曰く、「雞已に鳴けり。秀才は去るべし」と。詠は答えず、即ち戸を推す。詠は先に牀を以て左扉を拒ぎ、手を以て右扉を拒ぐ。其の子は既に呼びて応ぜざれば、即ち闥を排す。詠は忽ち退き立つ。其の子は身を閃かして入る。詠は其の首を斬りて之を斃す。少時にして次子又た至り、前の如くし、復た之を殺す。詠は剣を持ちて翁を視るに、翁は方に火を燎きて痒を爬く。復た其の首を断つ。老幼数人、並びに室に命を終え、乃ち火を縦つ。行くこと二十余里にして始めて曉け、後より来る者相い告げて曰く、「前の店、失火し、挙家焚かれたり」と。事は亦た奇なり、因りて之を附す。
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