史記 / 孫子呉起列伝
吳起者、衛人也、好用兵。嘗學於曾子、事魯君。齊人攻魯、魯欲將吳起、吳起取齊女為妻、而魯疑之。吳起於是欲就名、遂殺其妻、以明不與齊也。魯卒以為將。將而攻齊、大破之。
新字:吳起者、衛人也、好用兵。嘗学於曽子、事魯君。斉人攻魯、魯欲将吳起、吳起取斉女為妻、而魯疑之。吳起於是欲就名、遂殺其妻、以明不与斉也。魯卒以為将。将而攻斉、大破之。
書き下し
呉起は、衛人なり、兵を用ゐるを好む。嘗て曾子に学び、魯の君に事ふ。斉人、魯を攻む。魯、呉起を将とせんと欲す。呉起、斉の女を取りて妻と為す、而して魯之を疑ふ。呉起是に於いて名を就さんと欲し、遂に其の妻を殺して以て斉に与せざるを明らかにす。魯卒に以て将と為す。将として斉を攻め、大いに之を破る。
現代語訳
呉起は衛の人で、用兵を好んだ。かつて曾子に学び、魯の君主に仕えた。斉が魯を攻めたとき、魯は呉起を将にしようとしたが、呉起の妻が斉の出身だったため、魯は彼を疑った。呉起は功名を挙げたい一心で、ついに妻を殺し、斉に味方しないことを証明してみせた。魯はとうとう彼を将軍とした。呉起は将として斉を攻め、大いにこれを破った。
解説
目的のためには手段を選ばない――野心が倫理の一線を越える恐ろしさを突きつける一段です。呉起は将軍という地位(功名)を得るために、疑いを晴らそうと自分の妻を殺しました。軍事的才能は本物で、実際に斉を大破します。しかしこの「殺妻求将」の逸話は、彼の卓越した能力と、その裏にある人間性の欠落を同時に刻印します。ここに重い問いがあります。成果や地位のために、守るべき一線(人としての倫理)まで犠牲にしてよいのか。有能さと信頼は別物であり、目的のために大切なものを平然と切り捨てる人物は、たとえ結果を出しても、周囲に根深い不信を残します。この時に得た地位も、結局この冷酷さゆえの疑念によって長続きしません。能力の高さと、人としての信頼・倫理は必ずしも一致しない――呉起という人物を通して、司馬遷はその緊張を一貫して描いていきます。
この章句が説くこと
殺妻求将野心目的と手段能力と人間性倫理の一線信頼
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