史記 / 管晏列伝
晏平仲嬰者、萊之夷維人也。事齊靈公・莊公・景公、以節儉力行重於齊。既相齊、食不重肉、妾不衣帛。其在朝、君語及之、即危言。語不及之、即危行。國有道、即順命。無道、即衡命。以此三世顯名於諸侯。
新字:晏平仲嬰者、萊之夷維人也。事斉霊公・荘公・景公、以節倹力行重於斉。既相斉、食不重肉、妾不衣帛。其在朝、君語及之、即危言。語不及之、即危行。国有道、即順命。無道、即衡命。以此三世顕名於諸侯。
書き下し
晏平仲嬰は、莱の夷維の人なり。斉の霊公・荘公・景公に事へ、節倹・力行を以て斉に重んぜらる。既に斉に相たりて、食に肉を重ねず、妾に帛を衣せず。其の朝にあるや、君の語之に及べば、即ち言を危くし、語及ばざれば、即ち行ひを危くす。国に道有れば、即ち命に順ひ、道無ければ、即ち命を衡る。此れを以て三世、名を諸侯に顕す。
現代語訳
晏子、名は嬰は莱の夷維の人である。斉の霊公・荘公・景公の三代に仕え、質素倹約と実行力によって斉で重んじられた。宰相となってからも、食事に肉を二品も並べず、側女に絹を着せなかった。朝廷にあっては、主君が自分に意見を求めれば正論をずばりと述べ、求められなくても行いをきちんと正しく保った。国に正道が行われているときは命令に従い、道が乱れているときは命令の是非を自分で吟味した(盲従しなかった)。こうして三代にわたり、諸侯の間に名声を轟かせた。
解説
高い地位にありながら徹底して質素を貫いた晏子の、「言行の使い分け」に注目したい一節です。晏子は、意見を求められれば正論を直言し(危言)、求められなくても行動で範を示す(危行)。つまり発言すべき時と、黙って行動で示すべき時を心得ていました。さらに『国に道有れば命に順ひ、無ければ命を衡る』――正しい方針には従うが、誤った命令には盲従せず自分で是非を判断する。これは組織人としての成熟したスタンスです。上司の指示に無条件に従うのでも、反抗的なのでもなく、状況に応じて「従う・正す・自ら律する」を使い分ける。そして何より、地位が上がっても生活を律し続けた自己規律が、三代にわたる信頼の土台になっています。
この章句が説くこと
晏子質素倹約自己規律直言盲従しない成熟した組織人
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説苑・立節宋の康公阿を攻め、単父を屠る。成公趙曰わく、「始め吾自ら知らざりき、以為えらく千乗に在らば則ち万乗も敢えて伐たず、万乗に在らば則ち天下も敢えて図らずと。今趙阿に在りて宋単父を屠る、則ち是れ趙以て自ら立つ無きなり。且つ往きて宋を誅せん」と。趙遂に宋に入り、三月見ゆるを得ず。或ひと曰わく、「何ぞ隣国の使いに因りて之に見えざる」と。成公趙曰わく、「不可なり。吾隣国の使いに因りて之を刺さば、則ち後世の使いをして信ぜられざらしめ、節を荷う信用いられず、皆趙之をして然らしむと曰わん。不可なり」と。或ひと曰わく、「何ぞ群臣道徒処の士に因りて之を刺さざる」と。成公趙曰わく、「不可なり。吾群臣道徒処の士に因りて之を刺さば、則ち後世の臣信ぜられず、辯士顧られず、皆趙之をして然らしむと曰わん。不可なり。吾聞く、古の士怒れば則ち理を思い、危うくして義を忘れず、必ず将に行いを正して以て之を求めんとするのみと」と。期年、宋の康公病みて死す。成公趙曰わく、「廉士は名を辱めず、信士は行いを惰らず。今吾阿に在りて、宋単父を屠る、是れ名を辱むるなり。宋王を誅せんことを事とし、期年にして得ず、是れ行いを惰るなり。吾是くの如くにして生くれば、何の面目ありて天下の士に見えん」と。遂に槁を彭山の上に立つ。
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