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呂氏春秋 / 處方②

今夫射者儀毫而失牆,畫者儀髮而易貌,言審本也。本不審,雖堯、舜不能以治。故凡亂也者,必始乎近而後及遠,必始乎本而後及末。治亦然。故百里奚處乎虞而虞亡,處乎秦而秦霸;向摯處乎商而商滅,處乎周而周王。百里奚之處乎虞,智非愚也;向摯之處乎商,典非惡也;無其本也。其處於秦也,智非加益也;其處於周也,典非加善也;有其本也。其本也者,定分之謂也。

新字:今夫射者儀毫而失牆,画者儀髪而易貌,言審本也。本不審,雖堯、舜不能以治。故凡乱也者,必始乎近而後及遠,必始乎本而後及末。治亦然。故百里奚処乎虞而虞亡,処乎秦而秦覇;向摯処乎商而商滅,処乎周而周王。百里奚之処乎虞,智非愚也;向摯之処乎商,典非悪也;無其本也。其処於秦也,智非加益也;其処於周也,典非加善也;有其本也。其本也者,定分之謂也。

書き下し

今夫れ射る者は毫を儀みて牆を失れ、畫く者は髪を儀みて貌を易う。本を審らかにするを言うなり。本審らかならざれば、堯・舜と雖も以て治むる能わず。故に凡そ亂なる者は、必ず近きより始まりて後遠きに及び、必ず本に始まりて後末に及ぶ。治も亦た然り。故に百里奚、虞に處りて虞亡び、秦に處りて秦霸たり。向摯、商に處りて商滅び、周に處りて周王たり。百里奚の虞に處る、智の愚なるに非ざるなり。向摯の商に處る、典の惡しきに非ざるなり。其の本無ければなり。其の秦に處るや、智、益すを加うるに非ざるなり。其の周に處るや、典、善を加うるに非ざるなり。其の本有ればなり。其の本なる者は、分を定むるの謂なり。

現代語訳

今、射手が的の中心(の毫)にこだわって狙いを外し壁を外れ、絵師が髪一筋にこだわって全体の顔かたちを損なう。根本を明らかにせよということだ。根本が明らかでなければ、堯・舜であっても治められない。だから乱れというものは必ず近くから始まって遠くに及び、必ず根本から始まって末端に及ぶ。治も同じだ。だから百里奚は虞にいて虞は亡び、秦にいて秦は覇者となった。向摯は商にいて商は滅び、周にいて周は王となった。百里奚が虞にいたとき、その知恵が愚かだったのではない。向摯が商にいたとき、その典籍が悪かったのではない。根本がなかったからだ。秦にいたとき知恵が増したのではなく、周にいたとき典籍が良くなったのではない。根本があったからだ。その根本とは、職分を定めることをいう。

解説

この段は、細部にこだわって根本を見失う愚を戒め、統治の要は「本」にあると説きます。的の中心や髪一筋に執着して全体を損なう喩えの後、同じ人物でも仕える国次第で結果が正反対になる例を挙げます。百里奚は虞では亡国、秦では覇業を助け、向摯は商では滅亡、周では王業を助けました。本人の能力や持てる知識は変わらず、違いは「本すなわち職分の定め」の有無だ、というのです。背景には、人材は環境と役割の設計次第で成果が一変するという洞察があります。現代でも、同じ有能な人が組織の秩序や適所を得られるかで成否が分かれます。個人の資質より、それを活かす仕組みと根本方針の整備を重んじる示唆に富みます。

この章句が説くこと

百里奚向摯審本定分人材と環境根本

この一句を、あなたの毎日に。

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