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呂氏春秋 / 勸學③

曾子曰:「君子行於道路,其有父者可知也,其有師者可知也。夫無父而無師者,餘若夫何哉!」此言事師之猶事父也。曾點使曾參,過期而不至,人皆見曾點曰:「無乃畏耶?」曾點曰:「彼雖畏,我存,夫安敢畏?」孔子畏於匡,顏淵後,孔子曰:「吾以汝為死矣。」顏淵曰:「子在,回何敢死?」顏回之於孔子也,猶曾參之事父也。古之賢者與!其尊師若此,故師盡智竭道以教。

新字:曽子曰:「君子行於道路,其有父者可知也,其有師者可知也。夫無父而無師者,余若夫何哉!」此言事師之猶事父也。曽点使曽参,過期而不至,人皆見曽点曰:「無乃畏耶?」曽点曰:「彼雖畏,我存,夫安敢畏?」孔子畏於匡,顏淵後,孔子曰:「吾以汝為死矣。」顏淵曰:「子在,回何敢死?」顏回之於孔子也,猶曽参之事父也。古之賢者与!其尊師若此,故師尽智竭道以教。

書き下し

曾子曰く、「君子、道路を行くや、其の父有る者は知る可きなり、其の師有る者は知る可きなり。夫れ父無くして師無き者は、餘、夫れを若何せんや。」此れ師に事うるの猶ほ父に事うるがごときを言うなり。曾點、曾參を使いせしむるに、期を過ぐれども至らず。人皆曾點を見て曰く、「乃ち畏るること無からんや。」曾點曰く、「彼畏ると雖も、我存ず。夫れ安くんぞ敢て畏れんや。」孔子、匡に畏る、顏淵後れたり。孔子曰く、「吾汝を以て死せりと為す。」顏淵曰く、「子在す、回何ぞ敢て死せん。」顏回の孔子に於けるや、猶ほ曾參の父に事うるがごときなり。古の賢者は、其の師を尊ぶこと此くの若し。故に師も、智を盡く道を竭くして以て教う。

現代語訳

曾子はこう言った。「君子が道を歩いていれば、その人に父がいるかどうかは振る舞いから分かるし、師がいるかどうかも分かる。そもそも父もなく師もない者を、私はどうしてやることもできない。」これは、師に仕えることが父に仕えるのと同じであることを言っている。曾點が息子の曾參を使いに出したところ、期日を過ぎても帰ってこなかった。人々はみな曾點に会って「もしや死んだのではありませんか」と言った。曾點は「あれが死ぬような目にあっても、私が生きている。どうして勝手に死んだりしようか」と答えた。孔子が匡の地で危難に遭ったとき、顔淵が遅れてやって来た。孔子は「私はお前が死んだと思っていた」と言った。顔淵は「先生が生きておられるのに、この回がどうして死んだりしましょう」と答えた。顔回が孔子に対する態度は、ちょうど曾參が父に仕えるのと同じである。古の賢者は、その師を尊ぶことがこのようであった。だから師もまた、知恵を尽くし道を尽くして教えたのである。

解説

この段は、師に仕えることは父に仕えることに等しいという教えを、曾子の言葉と二つの逸話で示します。曾點は使いに出た息子が遅れても、自分が生きている限り子は勝手に死なないと信じ、顔淵もまた孔子が生きている限り自分は死ねないと語ります。師弟の絆を親子の情になぞらえ、弟子が師を深く敬うからこそ師も全力で教えるという相互の信頼が要点です。背景には、師恩を父の恩と並べて重んじる古代中国の師道観があります。現代の感覚とは距離がありますが、教え導く人への敬意と、その敬意に応えて全力を注ぐ指導者の姿という、師弟の理想的なあり方を伝える逸話として読むことができます。

この章句が説くこと

尊師師弟曽子顔淵孔子匡の難

この一句を、あなたの毎日に。

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