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論語と算盤 / 教育と情誼・其罪果して孰れに在りや

然るに今の師弟の間は、殆んど寄席を聴きに往つた有様をなして居るといふことは、私は満足の風習でないと恐れて居る、畢竟これは師匠たる人が悪いと云はなければならぬ、徳望、才能、学問、人格がモウ一層進まなければ、其の子弟をして敬虔の念を起さしむることは出来ぬ、そこには師たる人に欠点があると謂はねばならぬ。

書き下し

しかるに今の師弟の間は、ほとんど寄席を聴きに行った有様をなしているということは、私は満足の風習でないと恐れている。畢竟これは師匠たる人が悪いと言わなければならぬ。徳望、才能、学問、人格がもう一層進まなければ、その子弟をして敬虔の念を起こさしむることは出来ぬ。そこには師たる人に欠点があると言わねばならぬ。

現代語訳

ところが今の師弟のあいだは、ほとんど寄席へ落語を聴きに行ったような有様である。これを私は良い風習ではないと恐れている。つまるところ、これは師匠のほうが悪いと言わなければならない。徳望、才能、学問、人格がもう一段進まなければ、弟子に敬いの念を起こさせることはできない。そこには師である人の側に欠点があると言わねばならないのである。

解説

生徒が教師を寄席の客のように品評する——渋沢はその風景を憂えたうえで、責任をまず教師の側に置く。徳望も才能も学問も人格ももう一段進まなければ、敬いは起こらない、と。挙げる例は具体的だ。熊沢蕃山は諸侯を物の数ともしない気位の高い人物でありながら、中江藤樹の前では子どものようになり、三日待って弟子入りを許された。新井白石も剛情な人物だが、生涯木下順庵に服従した。感化の力は、地位ではなく徳望から出るという見方である。ただし渋沢は片側で終わらせない。段落を改めて「併し弟子の心得方も甚だ悪いと思ふ」と続ける。責を先に自分の側に取り、そのうえで相手にも求める順序である。

この章句が説くこと

師弟の情誼敬虔の念熊沢蕃山と中江藤樹師たる人の欠点

この一句を、あなたの毎日に。

古典の教えを、今の状況に当てはめて考えてみる——師導があなたの学びと選択を支えます。

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