論語と算盤 / 人格と修養・誤解され易き元気
元気といふものは然ういふもので無い、即ち孟子の謂ゆる至大至剛、至つて大きく至つて強いもの、而して『以直養』、道理正しき即ち至誠を以て養つて、それが何時までも継続する、唯ちよつと一時酒飲み元気で、昨日あつたけれども、今日は疲れて仕舞つたと言ふ、そんな元気では駄目である、直しきを以て養つて餒うる所がなければ、『則塞于天地之間』是こそ本統の元気であると思ふ
書き下し
元気というものはそういうもので無い。すなわち孟子のいわゆる至大至剛、至って大きく至って強いもの、そして「直きを以て養う」、道理正しきすなわち至誠をもって養って、それがいつまでも継続する。ただちょっと一時、酒飲み元気で、昨日はあったけれども今日は疲れてしまったという、そんな元気では駄目である。直きをもって養って餒えるところがなければ、「則ち天地の間に塞つ」。これこそ本当の元気であると思う。
現代語訳
元気とはそういうものではない。すなわち孟子の言う至大至剛、この上なく大きく、この上なく強いもの。そして「直きをもって養う」——道理の正しさ、つまり至誠によって養い、それがいつまでも続く。ただ一時、酒の勢いの元気で、昨日はあったが今日は疲れてしまった、というのでは駄目だ。まっすぐなものによって養い、飢えさせることがなければ、「天地の間に満ちる」。これこそが本当の元気だと思う。
解説
元気を孟子の浩然の気として捉え直した章である。渋沢が退けるのは、世間が元気と呼んでいるものだ。酔って大声を出して歩く、警官に捕まって恐れ入る、間違っていても強情を張り通す——それは元気ではない、と。福沢諭吉の独立自尊についても、自治や自活は働きが伴うからよいが、自尊は誤解すると倨傲になる、と釘を刺す。彼が採るのは「至大至剛、直を以て養ふ」の一句だ。強さの条件が、大きさや激しさではなく、まっすぐさに置かれている。だから一晩で切れる勢いは元気に数えない。道理の正しさで養われ、続くこと。それだけが天地に満ちる気になる。
この章句が説くこと
浩然の気至大至剛直きを以て養う独立自尊
関連する章句
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『論語と算盤』人格と修養・誤解され易き元気この『至大至剛、直きをもって養う』という言葉が甚だ面白い。世間ではよく元気がないとか、元気を出したとか言う。ことによると、大分酩酊して途中を大声でも出して来ると、彼は元気がよいと言い、黙っていると元気が悪いと言うが、しかし「ポリス」に捕まって恐れ入るというような元気は、決して誇るべきもので無い。人と争って自分が間違っておっても強情を張り通す、これが元気がよいと思ったら大間違いである。それはすなわち元気を誤解したのである。また気位が高いということも元気であろう。福沢先生のしきりに唱えておった独立自尊、この自尊なども或る場合には元気とも言えよう。自ら助け、自ら守り、自ら治め、自ら活きる、これらと同様な自尊ならばよい。しかし自治だの自活だのは、相当な働きがあるからよいが、自尊ということは誤解すると倨傲になる。あるいは不都合になる。すべて悪徳になって、ちょっと道を通りかかっても、こっちは自尊だからおれは逃げないと言って、自動車などに突き当たってはとんだ間違いが起こる。かかるものは元気ではなかろうと思う。
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『論語と算盤』人格と修養・誤解され易き元気元気とはいかなるものかと言うに、これを形に現わして説くことは甚だ難しい。漢学から説けば、孟子の言う浩然の気に当たるだろうと思う。世間ではよく青年の元気と言うけれども、青年にばかり元気があって、老人には無くてよいというのでない。元気は押し並べて、さらに一歩進んでは男女共になければならぬと考える。大隈侯のごとき私よりは二つもお上であるけれども、その元気は非常なるものである。孟子の浩然の気につきては、孟子が『その気たるや、至大至剛、直きをもって養いて害うことなければ、則ち天地の間に塞つ』と、こう言っている。
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『論語と算盤』人格と修養・誤解され易き元気この元気を完全に養うたならば、今の学生が軟弱だ、淫靡だ、優柔だと言われるような謗りは、決して受ける気遣いはなかろうと思う。しかし今日のままでは、多少悪くすると元気を損ずる場合がないとは言われぬ。老人とてもなおしかりであるが、特に最も任務の重い現在の青年は、この元気を完全に蓄えることをくれぐれも努めなくてはならぬ。程伊川の言葉であったと思うが、『哲人見機誠之思、志士厲行致之為』との句がある。あるいは文字が間違ってるかも知れぬが、これは私の注意した言葉で、今も感心するが、かの明治時代の先輩は『哲人見機誠之思』ということをした人である。大正時代の青年はどうしても『志士厲行致之為』という方であって、すべて巧みにこれをまとむる時代であると思う。ゆえに青年は十分元気旺盛にして、聖代に報答するの心掛けが緊要であると思う。
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『講孟余話』公孫丑上 第二章「至大至剛、直を以て養ひて害ふことなければ、則ち天地の間に塞がる」。此の一節最も詳かに読むべし。至大とは浩然の気の形状なり。「恩を推せば以て四海を保つに足る」と云ふも即ち此の気なり。此の気の蓋ふ所、四海の広き万民の衆きと云へども及ばざる所なし、豈に大ならずや。然れども此の気を養はざる時は、一人に対しても忸怩として容れざる如し、況や十数人に対するをや、況や千万人をや。蓋し此の気養うて是れを大にすれば其の大極まりなし、餒ゑしめて是れを小にすれば其の小亦極まりなし。浩然は大の至れる者なり。至剛とは浩然の気の模様なり。「富貴も淫すること能はず、貧賤も移すこと能はず、威武も屈すること能はず」と云ふ即ち此の気なり。此の気の凝る所、火にも焼けず水にも流れず、忠臣義士の節操を立つる、頭を刎ねられても、腰は斬られても、操は遂に変ぜず、高官厚禄を与へても、美女淫声を陳ねても、節は遂に換へず、亦剛ならずや。凡そ金鉄剛と云へども烈火以て鎔かすべし、玉石堅しと雖も鉄鑿以て砕くべし。唯此の気独り然らず、天地に通じ、古今を貫き、形骸の外に於て、独り存する者、剛の至りに非ずや。
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『論語と算盤』立志と学問・勇猛心の養成法勇気の修養には肉体上の修養とともに、内省的の修養に注意せねばならぬ。読書の上において、古来勇者の言行に私淑して感化を受くるもよし、また長上の感化を受け、説話を聴いて、深く身に体し行う習慣を養成し、一歩一歩剛健なる精神を向上せしめ、正義に関する趣味と自信とを養って、喜び望んで義に進むまでに到れば、勇気は自ずと生じて来るであろう。ただ注意すべきことは、くれぐれも青年時代の血気にはやり、前後の分別を誤って血気を悪用し、勇気を誤り用いて暴慢なる行動を執るようなことがあってはならぬ。品性の劣等なるものは勇気にあらずして、自然野卑狂暴となり、かえって社会に害毒を流し、ついには一身を滅亡するに到るものであるから、この点はよくよく注意し、平生の修養を怠ってはならぬ。
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『講孟余話』公孫丑上 第二章「直を以て養ふ」と云ふ同じ工夫にて、平日する所悉く直道に外るることなくして、是れを以て此の気を養育することなり。「其の気を暴ふことなかれ」と云ふは、即ち「害ふことなし」と云ふと同じ。害すると云ひ、暴ふと云ふに二様あり。一は私欲を肆にし、直道を以て志を持することを忘るる時は、自ら省みて愧づる所あり、大いに気を暴ひ害するなり。是れ即ち下節の所謂「苗を耘らざる者」なり。二は浩然の気の至大至剛は、為す所道義に合ふよりして自ら生ずる者なり。然るに道義に合ふと合はぬとをも考へず、向う見ずに大と剛とをなさんとする時は、一時は我慢血気にて狂暴粗豪を以て剛も大もなすべけれども、遂には愈々自ら省みて愧づる所あり。武田信玄の終身論語を読むこと能はざる如き、是れ最も気を暴ひ害するの大なる者なり。是れ下節の所謂「苗を□(揠)く者」なり。「天地の間に塞がる」と云ふは、其の効験を云ふなり。浩然の気は本是れ天地の間に充塞する所にして、人の得て気とする所なり。故に人能く私心を除く時は至大にして天地と同一になるなり。今吾れ一言一行細よりして、「諸を身に本づけ、諸を庶民に徴し、諸を三王に考へて繆らず、諸を天地に建てて悖らず、諸を鬼神に質して疑ひなく、百世以て聖人を俟ちて惑はず、動いて世々天下の道となり、行うて世々天下の法となり、言うて世々天下の則となる」と云ふ如くなれば、天地古今に充塞すと云ふべし。浩然の気は古来聖賢相伝へて、孟子に至り発明する所、学者に於て最も切実なること故に、特に是れを詳かにす。
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