論語と算盤 / 理想と迷信・道徳は進化すべきか
併し今日理化学が如何に進歩して、物質的の智識が増進して行くにもせよ、仁義とか云ふものは、独り東洋人が左様に観念して居る許りではなく、西洋でも数千年前からの学者、若くは聖賢とも称すべき人々の所論が、余り変化をして居らぬやうに見える、果して然らば古聖賢の説いた道徳といふものは、科学の進歩に依て事物の変化する如くに変化すべきものでは無からうと思ふのである。
書き下し
しかし今日理化学がいかに進歩して、物質的の智識が増進して行くにもせよ、仁義とかいうものは、ひとり東洋人がそのように観念しているばかりではなく、西洋でも数千年前からの学者、もしくは聖賢とも称すべき人々の所論が、あまり変化をしていないように見える。果たしてしからば古聖賢の説いた道徳というものは、科学の進歩によって事物の変化するごとくに変化すべきものではなかろうと思うのである。
現代語訳
しかし今日、理学化学がどれほど進歩し、物質についての知識が増していこうとも、仁義といったものは、東洋人だけがそう考えているのではなく、西洋でも数千年前からの学者や、聖賢と呼ぶべき人々の論が、ほとんど変わっていないように見える。そうであるなら、古の聖賢が説いた道徳というものは、科学の進歩によって物事が変わっていくようには変化しないものだろうと思うのである。
解説
道徳も進化するのか、という問いを渋沢は正面から立てる。彼はまず、変わる部分があることを認める。二十四孝の郭巨が親を養うために我が子を生き埋めにしようとした話を挙げ、今それをやれば馬鹿なことをすると評されるだろう、と言う。孝という同じ徳でも、その現れ方への毀誉は時代とともに変わる。しかしそこから先が結論だ。東洋でも西洋でも、仁義そのものについての聖賢の論は数千年ほとんど動いていない。だから道徳の核は、科学のようには進化しない。表し方は更新されるが、原理は据え置かれる——古典を今日の経営に使うという、この本全体の前提を支える章である。
この章句が説くこと
道徳は進化するか二十四孝仁義は変わらず古聖賢の道徳