六祖壇経 / 機縁品第七
「惠能沒伎倆,不斷百思想, 對境心數起,菩提作麼長。」
新字:「恵能没伎倆,不断百思想, 対境心数起,菩提作麼長。」
書き下し
「惠能に伎倆沒し、百思想を斷ぜず。 境に對して心數〻起こる、菩提作麼か長ぜん。」
現代語訳
「慧能に手立てなどない、さまざまな思いを断ちもしない。 対象に向かえば心はしばしば起こる、それで菩提がどうして育とうか」。
解説
臥輪という僧が「臥輪に伎倆有り、能く百思想を斷ず。境に對して心起こらず、菩提日日に長ず」——私には手立てがあり、あらゆる思いを断てる、対象に向かっても心が起こらず、菩提が日々育つ、と偈を作った。それを聞いた慧能が、同じ形で作り返したのがこの四句である。臥輪の偈を一句ずつひっくり返している。伎倆がある/ない、思いを断つ/断たない、心が起こらない/しばしば起こる。最後だけ形が違う。「菩提作麼か長ぜん」——菩提が育つ、という発想そのものを疑問形で外した。菩提は積み上がる資産ではない、というのが慧能の一貫した立場である。臥輪の偈は、修行の手応えとしてはたいへん健全に見える。だから危ない。何かを断てるようになり、動じなくなり、日々育っていると感じられる——その手応え自体を、慧能は「伎倆」と呼んで手放している。何も持たない側から返しているのが、この偈の凄みである。
この章句が説くこと
臥輪の偈恵能没伎倆対境心数起手応えを手放す
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