六祖壇経 / 行由品第一
惠能後至曹溪,又被惡人尋逐,乃於四會,避難獵人隊中,凡經一十五載,時與獵人隨宜說法。獵人常令守網,每見生命,盡放之。每至飯時,以菜寄煮肉鍋。或問,則對曰:「但吃肉邊菜。」
新字:恵能後至曹渓,又被悪人尋逐,乃於四会,避難猟人隊中,凡経一十五載,時与猟人随宜説法。猟人常令守網,毎見生命,尽放之。毎至飯時,以菜寄煮肉鍋。或問,則対曰:「但吃肉辺菜。」
書き下し
惠能後に曹溪に至るも、又た惡人に尋逐せられ、乃ち四會に於て、獵人の隊中に難を避くること、凡そ一十五載を經たり。時に獵人と宜しきに隨ひて法を説く。獵人常に網を守らしむ。生命を見る每に、盡く之を放つ。飯時に至る每に、菜を以て肉鍋に寄せて煮る。或るひと問へば、則ち對へて曰く、「但だ肉邊の菜を吃らふのみ」と。
現代語訳
慧能はのちに曹渓に至ったが、また悪人に追われ、四会という地で猟師の一団に混じって難を避けること、およそ十五年に及んだ。時おり猟師たちに、その場に応じて法を説いた。猟師はいつも慧能に網の番をさせた。慧能は生き物を見るたび、すべて逃がしてやった。食事の時になると、野菜を肉鍋に入れて一緒に煮た。ある人が問うと、こう答えた。「ただ肉のそばの野菜を食べるだけです」。
解説
六祖となった人物の、十五年の空白期間である。猟師にまぎれて生き、網の番をさせられ、獲物を逃がし、肉鍋の縁で野菜を煮て食べていた。「但だ肉邊の菜を吃らふのみ」——肉のそばの菜だけをいただきます。戒律を破らず、しかし場を壊さず、責めもしない。原理を曲げないことと、周りと対立することは別だと示している。日本では「肉辺菜」として、戒を守りながら世間で生きる態度を指す言葉になった。悟った直後に舞台に立ったのではなく、十五年、誰にも知られず暮らしたという事実も重い。準備が終わってから世に出る、のではない。世に出られない時間の過ごし方の話である。
この章句が説くこと
肉辺菜十五年の潜伏戒を守りつつ場を壊さない猟師
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『六祖壇経』行由品第一祖、本性を悟れるを知り、恵能に謂ひて曰く、「本心を識らずんば、法を学ぶも益無し。若し自らの本心を識り、自らの本性を見ば、即ち丈夫・天人師・仏と名づく」と。三更に法を受け、人尽く知らず。便ち頓教及び衣鉢を伝へて云ふ、「汝を第六代の祖と為す。善く自ら護念し、広く有情を度し、将来に流布して、断絶せしむること無かれ。吾が偈を聴け、曰く、『情有りて来りて種を下せば、地に因りて果還た生ず。情無ければ亦種無く、性無ければ亦生無し』と。祖復た曰く、「昔、達摩大師初めて此の土に来るに、人未だ之を信ぜず。故に此の衣を伝へて以て信体と為し、代代相承く。法は則ち心を以て心に伝へ、皆自ら悟り自ら解せしむ。古より、仏仏惟だ本体を伝へ、師師密かに本心を付す。衣は争ひの端為り、汝に止めて伝ふること勿れ。若し此の衣を伝へば、命懸糸の如し。汝須らく速やかに去るべし。人の汝を害せんことを恐る」と。恵能啓して曰く、「甚(いづ)れの処に向ひて去らん」と。祖云ふ、「懐に逢はば則ち止まり、会に遇はば則ち蔵(かく)れよ」と。三更に衣鉢を領得す。五祖送りて九江の駅に至り、祖、船に上らしむ。恵能随即ち櫓を把る。祖云ふ、「合(まさ)に是れ吾汝を渡すべし」と。恵能云ふ、「迷ふ時は師度し、悟り了れば自ら度す。度の名は一なりと雖も、用処同じからず。恵能は辺方に生まれ、語音正しからざるに、師の法を付するを蒙る。今已に悟ることを得たり。只だ合に自性にて自ら度すべし」と。祖云ふ、「是の如し、是の如し。以後の仏法は、汝に由りて大いに行はれん。汝今好く去れ。努力して南に向へ。速やかに説くに宜しからず、仏法起り難し」と。恵能、祖に辞違し已りて、足を発して南に行く。両月の中間に、大庾嶺に至る。後を逐ひて数百人来り、衣鉢を奪はんと欲す。一僧、俗姓は陳、名は恵明、先は是れ四品の将軍なり。性行粗燥にして、極意に参尋し、衆人の先と為り、恵能に趨(はし)り及ぶ。恵能、衣鉢を擲下して、草莽の中に隠る。恵明至り、提ぐるも動かず、乃ち喚びて云ふ、「行者、行者、我は法の為に来る、衣の為に来らず」と。恵能遂に出でて、盤石の上に坐す。恵明礼を作して云ふ、「望むらくは行者、我が為に法を説け」と。恵能曰く、「汝既に法の為にして来らば、諸縁を屏息して、一念をも生ずること勿れ。吾汝が為に説かん」と。
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『六祖壇経』付嘱品第十次の年七月二十五日、龕より出だし、弟子才辯、香泥を以て之に上る。門人、首を取るの記を憶念し、遂に先ず鉄葉・漆布を以て、師の頸を固護して塔に入る。忽ち塔内に於いて、白光出現し、直ちに上りて天を衝き、三日にして始めて散ず。韶州奏聞し、勅を奉じて碑を立て師の道行を紀す。師、春秋七十有六、年二十四にして衣を伝え、三十九にして祝髪し、説法利生すること三十七載。旨を得て法を嗣ぐ者、四十三人、道を悟りて凡を超ゆる者、其の数を知る莫し。達摩の伝うる所の信衣、中宗の賜う摩納・宝鉢、及び才辯の塑せる師の真相、並びに道具等は、主塔の侍者之を尸り、永く宝林道場を鎮む。壇経を流伝して、以て宗旨を顕し、三宝を興隆し、普く群生を利する者なり。
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『六祖壇経』行由品第一時に大師、宝林に至る。韶州の韋刺史、名は璩、官僚と山に入り、師を請じて城中の大梵寺の講堂に出だし、衆の為に縁を開きて法を説かしむ。師、座に升る次(ついで)、刺史・官僚三十余人、儒宗の学士三十余人、僧尼道俗一千余人、同時に礼を作(な)し、法要を聞かんことを願ふ。
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『六祖壇経』行由品第一此の偈を書し已るに、徒衆総て驚き、嗟訝せざる無く、各相謂ひて言ふ、「奇なる哉。貌を以て人を取るを得ず。何ぞ多時、他の肉身菩薩を使ふことを得たる」と。祖、衆人の驚怪するを見て、人の損害せんことを恐れ、遂に鞋を将て偈を擦り了(をは)りて曰く、「亦未だ見性せず」と。衆以て然りと為す。次の日、祖潜かに碓坊に至り、能の石を腰にして米を舂くを見て、語りて曰く、「道を求むるの人は、法の為に躯を忘る。当に是の如くなるべきか」と。乃ち問ひて曰く、「米熟するや未だしや」と。恵能曰く、「米熟すること久し。猶ほ篩(ふるひ)を欠く在り」と。祖、杖を以て碓を撃つこと三下して去る。恵能即ち祖の意を会し、三鼓に室に入る。祖、袈裟を以て遮り囲み、人をして見しめず、為に金剛経を説く。「応に住する所無くして其の心を生ずべし」に至りて、恵能言下に大悟し、一切万法、自性を離れず。
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